ほつま
昨日の地方紙のコラム欄に、先人の言葉として載っていたものだ。
江戸時代初期の禅僧 鈴木正三(しょうさん)の言葉。
「一生に成仏せんと思うべからず」
そして次のような解説が加えられていた。
「仏教の修行は何度も生まれ変わりながら行なうものであり、
一生のうちに悟りを開こうとおもうな。」
われわれは「悟り」を「求めて」いるのではないが、
一生の時間という期限を知らぬうちに決め付けてしまい、トレーニングの成果を
少しだけでもこの期間中に見つけたいという焦りが根深いところに潜んでいるように思う。
期限を切るなんてエゴそのもの、まかせるの真逆であるが、気づきにくいところが確かにある。
あと、20才若いころに縁があったらばとか、いま40歳ならば、
などとあらぬ方向に思考がさ迷う。焦りの証拠である。
実は完全に御門違いなのだが。
だが限られた時間だからこそ淡々と愚直に死ぬまで継続してゆく覚悟が必要なのだ。
悟りや気づきなど求めることなく、人としての成長の方向と思うならば淡々と、
とぼとぼでもよい、たどたどしくてもよいのだ、歩き続けようと思う。
最後には次のように締めくくってあった。
「日々の生活をつつがなく送ること自体が修行であり、悟りでもある、と正三は述べている」。
我々の言葉「ほつま」の日々が混じり始めれば確かにそのとおりだ。
江戸時代初期の禅僧 鈴木正三(しょうさん)の言葉。
「一生に成仏せんと思うべからず」
そして次のような解説が加えられていた。
「仏教の修行は何度も生まれ変わりながら行なうものであり、
一生のうちに悟りを開こうとおもうな。」
われわれは「悟り」を「求めて」いるのではないが、
一生の時間という期限を知らぬうちに決め付けてしまい、トレーニングの成果を
少しだけでもこの期間中に見つけたいという焦りが根深いところに潜んでいるように思う。
期限を切るなんてエゴそのもの、まかせるの真逆であるが、気づきにくいところが確かにある。
あと、20才若いころに縁があったらばとか、いま40歳ならば、
などとあらぬ方向に思考がさ迷う。焦りの証拠である。
実は完全に御門違いなのだが。
だが限られた時間だからこそ淡々と愚直に死ぬまで継続してゆく覚悟が必要なのだ。
悟りや気づきなど求めることなく、人としての成長の方向と思うならば淡々と、
とぼとぼでもよい、たどたどしくてもよいのだ、歩き続けようと思う。
最後には次のように締めくくってあった。
「日々の生活をつつがなく送ること自体が修行であり、悟りでもある、と正三は述べている」。
我々の言葉「ほつま」の日々が混じり始めれば確かにそのとおりだ。