再度、煩悩
大量の文書類を整理していたら何かのコピーのようなものがあった。
タイトルは「煩悩」。仏教用語である。
まいど会ではかって一度も使われてきたことはないが、
エゴの表象とみることができそうだ。
読み返していると、どうやら私がかって書いた記憶がある。
印刷記録では2010年6月。
再度、記載してみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)はすごい句だ。
非常に深い二つの言葉を「即」でつないである。
菩提とは智であり道であり覚である。叡智、真の道、覚醒である。
膨大な意識の意識である。
イマジンを学ぶ前は、煩悩がどうして菩提なのか、よく分からなかった。
「即」はこの場合、いいかえればとか、つまりとか、等しいという意味ではなく、
二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態をさす。
だから煩悩の真逆が菩提ということになる。
われわれは心の選択によってどちらの方向にも行けるようになっている。
しかし、エゴの強い粘性によって煩悩が限りなく肥大し、
まるで煩悩の海に浮かぶような状況にある。
溺れてしまって煩悩そのものの存在さえ気がつかないヒトがほとんどだろう。
煩悩を呼吸し、煩悩を食べ、煩悩の枕でお昼寝しているのだ。
心はもともと中立だが、未完成なままの脳の指令が強く、
煩悩の方向を選びがちなのである。
ヒトは煩悩大好きなのだ。煩悩が骨の髄までしみ込んでいるのだ。
だから、病気にもなり人間関係でも苦しむ。
苦しみながら、実はなにもわかってはいない。
自己観察を嫌う別のエゴが控えている。
嘆きのため息は深いが、吸い込むときはまたしても煩悩。
われわれのトレーニングは一日に数秒でもいいから真逆をむくこと。
だが「どうしたらいいの?」と聞くときにはすでに心は煩悩。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の事象はすべて、われわれが観ることにおいては相対的な様相を帯びる。
けれどもそのことを常に忘れ、一方の極に傾く。
善か悪か、白か黒か、愛情か憎悪か、長か短か、・・・・・・。
いったんどちらかに足を踏み入れれば対極には振れにくい。
心の原理である。
ステレオタイプ化することで、脳の省力化を狙っているのだ。
これこそがエゴの仕業である。
見切ればエゴは無力化する。
俯瞰せよ、といつも自分に言い聞かせている。
タイトルは「煩悩」。仏教用語である。
まいど会ではかって一度も使われてきたことはないが、
エゴの表象とみることができそうだ。
読み返していると、どうやら私がかって書いた記憶がある。
印刷記録では2010年6月。
再度、記載してみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)はすごい句だ。
非常に深い二つの言葉を「即」でつないである。
菩提とは智であり道であり覚である。叡智、真の道、覚醒である。
膨大な意識の意識である。
イマジンを学ぶ前は、煩悩がどうして菩提なのか、よく分からなかった。
「即」はこの場合、いいかえればとか、つまりとか、等しいという意味ではなく、
二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態をさす。
だから煩悩の真逆が菩提ということになる。
われわれは心の選択によってどちらの方向にも行けるようになっている。
しかし、エゴの強い粘性によって煩悩が限りなく肥大し、
まるで煩悩の海に浮かぶような状況にある。
溺れてしまって煩悩そのものの存在さえ気がつかないヒトがほとんどだろう。
煩悩を呼吸し、煩悩を食べ、煩悩の枕でお昼寝しているのだ。
心はもともと中立だが、未完成なままの脳の指令が強く、
煩悩の方向を選びがちなのである。
ヒトは煩悩大好きなのだ。煩悩が骨の髄までしみ込んでいるのだ。
だから、病気にもなり人間関係でも苦しむ。
苦しみながら、実はなにもわかってはいない。
自己観察を嫌う別のエゴが控えている。
嘆きのため息は深いが、吸い込むときはまたしても煩悩。
われわれのトレーニングは一日に数秒でもいいから真逆をむくこと。
だが「どうしたらいいの?」と聞くときにはすでに心は煩悩。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の事象はすべて、われわれが観ることにおいては相対的な様相を帯びる。
けれどもそのことを常に忘れ、一方の極に傾く。
善か悪か、白か黒か、愛情か憎悪か、長か短か、・・・・・・。
いったんどちらかに足を踏み入れれば対極には振れにくい。
心の原理である。
ステレオタイプ化することで、脳の省力化を狙っているのだ。
これこそがエゴの仕業である。
見切ればエゴは無力化する。
俯瞰せよ、といつも自分に言い聞かせている。