Lさん

4月から中学生になる孫を伴って、2人で夕食を兼ねて居酒屋に行きました。

そこで孫への話。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」

要するに

小人物は大人物の胸のうちは分からない、との話をしました。

あわせて、生きるにおいて大切なことは「結果にフォーカスする」。

プロセスは寄って来るもの、考えすぎないこと、・・・・・・・。

どこまで伝わったかは分かりません。

すこし酔っていました。



桜が満開です。

よき春の一日でした。

明日もよい日です。



原子力発電所で発電した後に出る放射性廃棄物の処分について、

日本をはじめ多くの国が頭を悩ませている。

10万年という想像もつかないような年月を経ないと

放射線のレベルが安全なものにならないのである。

物理法則だから、東から日が昇り西に沈む、よりも厳格な事実である。

10万年経っても科学技術で何とかなるわけではない。

人類史5000年の20倍もの期間が必要なのだ。

核のゴミ処理の問題に対し、我々一個人としてどう向き合えばよいのか。

社会人として、様々な思考、信条、に基づく政治、経済、環境に対する言動や行為は別にして、

最終的にはこの現実を受け入れるほかはない。

いったん開いてしまったパンドラの箱を元に戻すことはできないのだ。

自身の存在の責任として受け入れる。

人類として、どうしようもない現実はそのまま逃げないで10万年を待つ。

最近、このような思いがふっと湧き上がる。

黙って、モードチェンジをやり、後ろの意識を練習し、言葉を使う、

ジャッジしない、降参する、・・・・・・・・・。

次の師匠の言葉に救いが見える。

「人は完全なる霊的存在であって、未だかってどんな不調和にも汚染されたことがない特殊な存在である。

だから『神の似姿』なのだ。」

明るく伸びやかに自由に生きてゆきたい。

現実はじつは幻想でもあるのだ。


春爛漫

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記念樹としておよそ30年ほど前に植えた桜が満開を迎えた。

植木市で買ったときには直径3cmほどだったが、30数年後の現在、

50cmを越すほどになっている。高さは7,8mにもなる。

この間、幼児だった息子は社会人になり、孫もすでに高校生となる。

時の経つのは早い。

我が心の内はどうなのか。

悩みは尽きることなく、それも同じようなパターンの繰り返しだ。

だが近頃は俯瞰して見ている自分がいて、「お前も成長がおそいのう」

と苦笑している。

心の重さの傾向や根源もかなり分かってきたが、この解放には少なくとも

あと十年はかかりそうだ。

いつもこの時期に桜を観て浮かぶ歌が二首ある。

『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花』(本居宣長)



『敷島の大和の国は 言霊の幸はふ国ぞ 真幸くありこそ』. (柿本人麻呂)

「日本は、言霊(ことだま)が真の幸福を与えてくれる国だ」

モードチェンジだ。

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へそ塩

久しぶりにへそ塩灸をしてみました。

何年ぶりでしょうか。

何ともいえない心地よさと開放感がありました。

下記は以前まいど会でやっていた方法です。

仰向けに寝て、へそに塩をたっぷりと入れます。

われわれは商品名が「極楽塩」という塩を使いましたが、

ミネラル豊富な自然塩ならばどれでもよいでしょう。

へそに蓋をするように、適当な大きさの紙を置きます。

滑り落ちないようにテープで止めると良いでしょう。

この紙にはある画像が印刷されたものを使用しますが、

なければ白紙でも良いと思います。

紙のへその真上の部分に、商品名「せんねん灸」に火をつけたものを置きます。

しばらくすると、お灸の熱がじっくりとお臍に伝わってきます。

せんねん灸1個では2分半ほどで燃え尽きますので、連続して3個使います。

ペアでやるといいでしょう。

へそ塩灸は色んなバリエーションがありますので、

他を参考にしてもいいのではないかと思います。

人は誰でも、重い課題を背負って生きています。

寝ても醒めても重くのしかかってくるものがあります。

逃げないで、正面から向き合うことが大切です。

こういうときには水「邪気消し」をのみ「へそ塩灸」をします。

師匠のお薦めです。



仕事

Lさん

仕事をする上で、人を動かす、と言うことが特に大事ですが、これが一番難しい。

本屋のビジネスコーナーには、色々な方法論を述べたたくさんの本がならんでいます。

中でも古典的な、Dカーネギーの「人を動かす」という本があります。

とてもいいことが書いてありますし、それなりに役にはたちます。

自己啓発にはなります。でも結局は手引書(マニュアル)でしかありません。

思考論なのです。

やはり、最終的には人の器が問われます。

器は受け入れる練習を通してすこしずつ大きく適正になるようです。

(本当は本来の自分に気がつくことです。)

逃げたり拒否したりを繰り返すと、そのチャンスを逃がします。

胸を開くという練習が必要です。

究極のところ、膨大な意識の実在を信頼するということでしょうね。

高次の愛に近づくことですね。

溺れそうになったり、もうだめか、というところまで追い詰められたらそこが成長のチャンスです。

もう降参するしかない、を経験することでしょうね。

こういうときには思考は何の役にも立ちませんが、確かな深い意識に触れる機会です。

しかし思考の余裕があれば、ヒトは逃げます。それは本能だからです。

先に怖さを想像するからです。幻影に怯えるのです。

「人を動かす」は実はこの言葉に囚われている限り人は動きません。

成果を探る思考なのです。エゴ用語なんです。

器とは、愛や慈しみにどれだけ向かえるかと言うことなのですね。

それに気がつけば人は勝手に動いてくれますよ。

召かずして而も自ずから来たり。(老子)


思いの選択

自身の心が、自分の見ているこの世を作っている、と言うことを学び

始めてから、何年も経っているが、感覚的に察知し始めたのは、

そんなに古くはない。

「心の選択した思い」が重要であり、「この世」を変えるには

自身の選択を変えることしかないことを如実に実感している。

日常の目の前に展開される一見ありふれた光景の中に、

自分の選択した思いがどこかに表現されているはずだから、

しっかりと観察しようと思っている。

もちろん因果関係を探るというのではなく、生活の流れの中に

垣間見えるはっとする瞬間を待つという意味である。

なお、選択とは愛や慈しみといった高い意識の方を向くのか、

判断という脳を使う方向をむくのか、のどちらかだと思っている。

以前、長男の嫁との長い確執があった。ある日から、画像に名前を書いて

淡々と毎日燃やし続けた。3年がたったころ、私の中に嫁への

軋轢の感は完全に消えていた。

久しぶりに会った嫁は、穏やかな笑みを浮かべていた。

奇跡が起きたのかと思ったほどである。

師匠は種々の練習法を教示されている。

私は、これに関しては「言葉」と「画像もやし」を使った。

確執、軋轢とは自分が作ったものだったんだ、

であれば自分が手放すことで解放されたことになる。

思いは、上書きできるんだってこと。

それにしても3年という月日が長かったのか、短かったのか。

苦しいのは、苦しみを手放さないで自らしがみついている事。

これは実感です。




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気づかなければ花はあっという間に散ってしまう。

まして花の名前など意識にさえ上らない。

周りの景色は、瞬間瞬間に変化して止まる事を知らぬのに

心は、囚われという儀式を延々と繰り返しているようだ。

呼吸に意識を置くと、わずかの時間だが、周りが新鮮で輝いて見える。

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受け入れる

Lさん

師匠の言葉

「アナタの考えと違うものに、心を開くように、魂は迫ってくる。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こういう場合には、気分がはなはだよくありません。

いやだ、違うよ、やめろよ、いやそうではない、嫌いだ・・・・

自分の尺度、基準、考え、習慣、見方、観点、視野、・・・

これらに合わないものはすべてをを排除しようとします。

至極当然な反応ですが、

判断してしまうのはエゴによるものです。

で、とりあえず、いったん受け入れてしまう。

この習慣が無ければ、狭い舞台の小心な俳優さんに終わります。

清濁併せ呑む、といいますが損得なく本当にできるのであれば

そのヒトは相当な人物です。

潔癖すぎる人は必ずしも心が広いとは言えませんね。

仕事を維持し広げてゆくことは、とりもなおさず

この観点に習熟することです。

けっこう難しいけれど、すこしずつでも体得したいですね。

「なぜ難しいの」と聞いてきましたね。

異質なものを受け入れることはエゴにとっては「恐怖」なんです。

ヒトは恐怖から逃げようとするのです。どんなに小さな怖れであってもです。

ここがアナタを小さくしてしまう癖なんですね。

更に言えば、異質なものとは言いながらアナタの中に本来あるものなんですね。

排除意識は自分をどこかで否定してしまってるんです。

だから気分がよくないのです。






馬頭観音

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九州国立博物館で2月10日から「ボストン美術館展」が開催されている。

それを見学したMさんが御土産に素敵なパンフレットを持ってきてくれた。

その中を飾るこの画像が「馬頭観音菩薩像」である。

『見る者を釘付けにする迫力、怒りの表情で見る者を一喝する馬頭観音、

その身は截金(きりがね)によって美しく飾られている。

美麗を極めた平安仏画の傑作。12世紀中頃』という解説がつく。

切り取って改めて眺めると確かにすごい迫力ある感覚を得た。

さっそく、「後ろの意識」でゆっくりと眺める。目を閉じる。

ぼんやりとしたイメージが湧く。目を開き画面を見る。

また目を閉じる。何回か繰り返した後に、

目を開いたまま、画面を部屋いっぱいの大きさに拡大したイメージモード。

荒荒しく皮膚が無数の針で突付かれるような痛感がある。それが全身に広がるが、不快感はない。

むしろ壮快でパワフルな感じだ。押し寄せるような強い圧力、吹き付ける様な熱感、

通り過ぎて行く風圧、皮膚は様々な信号を捕らえ感覚領域にさざなみが次々に押し寄せる。

しばらくこの流れに身をゆだねてみた。

やがてタイマーが鳴って8分過ぎた事を告げた。

ふーッ吐息を吐いて終了。

気になってインターネットで馬頭観音を検索したみた。

「衆生の無智、煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。・・・・・・・

生死の大海を跋渉し四魔を催伏する大威勢力、大精進力を表す観音・・・・

無明の重き障りをまさに馬の如く食らい尽くすという。・・・・」

まさにこの解説にあるとおりの菩薩であった。

およそ900年昔、この仏画の絵師はどう人だったのだろうか。

馬頭観音を感得した仏師の一人だったと確信した。

当時の人々は常時、諸相を俯瞰していたのかもしれないのだ。

現代人の思考癖は無智、煩悩につかまった人間の様なんだな。

二元論の罠である。

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プロフィール

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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