ヒーリング

先日、自称ヒーラーのHさんが訪ねてきました。

「医学と、癒し(ヒーリング)の違いはどこにあるのでしょうね。」

私の独断ですが、現代医学とは、いわゆる「科学」です。

人の命を守り、さらによりよい心身の健康を維持すべく、

高度な最新の知識や技術を駆使して可能な限り原因を追求し、

結果を出すことを目指します。

人類の貴重な経験の積み重ねですし、財産ともいえます。

ですから、医学を扱うには、相応の能力が必要ですし、

豊かな人間性も重要です。

ですが、究極的に技術や方法論に帰着します。

また、脳の処理能力以上のことは出来ません。

原因~結果のプロセスが見えなければ「医学的」とは判断されません。

3次元の呪縛から決して自由にはなれません。

けっこう制限が大きいので、医学の各分野での矛盾には事欠きません。

さて、癒し(ヒーリング)とは何でしょうね?。

双方ともに原因探しを初めから放棄すること、

高次元に自分がある事を自覚するだけ。結果を求めないこと。

双方とは、施術者と受ける人のことです。

本来は区別のつけようがないのですが。

原因があって結果があるという感覚は3次元の幻想であり

存在の本質ではないことを知っていなければ癒しは出来ません。

医学とは機序が違うから比較する意味は全くないことを理解しておくこと。

癒しには、判断の対象は元々存在しませんから結果はどうでもよいのです。

技術や方法論はないのです。

そういう意味では、本当の癒しができるヒトはいません。

多分本当の医師もいないでしょう。

とりあえず、メモのつもりで書いてみました。


 

われわれの「水」

「高次元」について、言葉で説明することは事実上不可能なのである。

言葉は、もともと3次元の脳の中で生まれたものだから、高次元について

語る道具とするには、例えや比喩を多用しなければならない。

「例えば」、3次元の山の高さを2次元平面では等高線で表す便法の

ようなものを作らざるを得ない。

遠近法や投影法も次元を落として説明する比喩であって、

事実ではなく想像するためのデータに過ぎないのだ。

もっと端的に言えば、味覚の「甘さ」を色にたとえるならば「何色?」

「初恋の味は」は「?」の如く、そのこと自体が、本質的な存在から

反らされてしまうという矛盾を含むのである。脳の持つ業のようなものだ。

脳の本質的な限界なのである。

もともと3次元脳は饒舌が好きで、それが尽きるということはない。

それはそれでいい、哲学も文学も、社会科学、自然科学も、そしてトリセツにいたるまで無数にあり、

この身に関して言えば恩恵を受けているのは事実だ。

だが、高次元を前にして、言葉での表現が不可能ならば、沈黙の他はない。

「水」は、黙して語らない。

しかし、「水」は言葉で表せない実在を我々に伝えてくれる。

体験談は、そのかすかな片鱗である。

「水」には「題」が付いているが、実は単なる分別上の記号に過ぎないのだ。

と言うことが分かれば、水の飲み方も違ってくる、というものである。

高次元を体験したければ(本当は知っているのだが)、黙って「水」を飲め。

もう言葉遊びはやめよう。

高次元をシンプルに理解するには脳を使わない(思考を停止する)と言うことが

分かっていただけただろうか。

・・・・・というような事を最近つくづく思うのです。

当たり前のこと

師匠の言葉。

「エネルギー技術より先に生き方の技術を習得しなければならない。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とても大切なことだと思う。

「生き方の技術」とは、たとえば

経済的には自立していること、

社会生活が円滑に出来ること、

つまり、ルールやマナー、モラルといった約束事は、

生きる上では決してムダではないことを受け入れていること。

いたずらに事を起こさないために慣習には従うが、

自らの内部には自立的な規範があり、因習には縛られず、

自然に自発的に行動すること。

現実を正しく認知できること。

人の弱さや罪深さ、邪悪な部分がある事を排除しないで受け止められること。

人は協力して物事をなすことを、しっかりと理解していること。

などなど・・・。

高次元を学ぶよりも先に、

人としての基盤をしっかりと確立しておかなければ

その『学び』さえも縁がないということになりかねない。


器量

地方紙の柳壇より、お題は「ハプニング」

その中から、二首。

*その人の器量が見えるハプニング

*ハプニング男の肝が試される

普段では見えない人物の大きさは、突然の出来事に対処するときに

如実に現れる。

普段から心がけていざというときに備えられるのか。

つまり器量を大きくする練習が出来るのか?。

まず、アタマでの努力では無理だ。

こうあるべきだ、という目標を設定して鋭意邁進する努力は決して実らない。

その人の持って生まれた特質だから、後に身につけられるようなものではない。

それ以前に、器量の大きい小さいは比較であって、

3次元の狭量な見解に過ぎない事を知っておくべきであろう。

危機に際し、見事な振る舞いもあれば、

言葉とは裏腹に見苦しい、惨めな姿をさらすこともあろう。

赤恥を人前でかくこともあろう。

どちらでもかまわないのである。

カッコよくても良いし、悪くてもいい。

なすべきは、思い込み刷り込みを見切って、

日に晒し、色あせさせることに尽きる。

その下にはあるがままの己がある。

その生のままで生きられればよい。

偏りのない自分に立ち戻ることからはじまるのだ。

つまり、良い部分と最悪な部分が同時にあることを理解する。

すべては二重構造である事に気づく。

それは同時に、高次元を知ることと同意義となるだろう。

器量の大きさは、実は思考という道からどれほど逸脱したか

ということの指標だと思う。




一部屋で

先日、BSのTVをぼんやりと見ていたら、面白い紀行番組をやっていた。

中世のルーマニアには、結婚刑務所というものがあったそうだ。

要塞のような教会に、離婚したがっている夫婦を2週間と閉じ込めて

一つの部屋、一つのベッド、一つのテーブルなどで生活をさせる。

結果は2000組につき離婚に至ったのは1組だけだったという。

というようなお話だった。

ヒトは鏡を意識せずとも避けようとする傾向がある。

自分自身を真正面から見るのに耐えられないからだ。

しかし、鏡を通してしか己は見えない。

相手に自分自身を見ることに気がつくことは、

愛の始まりなのだろう。

中世にはこの知恵があったのだろうね。






Tさんが歌い終わったときに、少し間が空いたそうだ。

母が言うには長く感じたけれど1,2秒だったような・・・。

その後、ワレにかえった仲間達からの割れんばかりの拍手と

賞賛の嵐がしばらく続いたという。

地区老人会の温泉旅行、カラオケ大会の出来事だった。

湯に入り、食事も終わり、酒宴も終わりに近づいたときに、

メンバーでもある司会者が会場を眺めて、

『おや、このヒトはまだ歌ってないぞ、

せめて1度くらいは当てておかなきゃ・・・』と配慮した人なのだった。

歌は淡谷のり子の「別れのブルース」だったそうだ。

皆が言うには、

(淡谷)本人よりも上手、歌唱力のすごかこと、今まで聞いたことのなか、・・・

田舎の小さな村の老人会の中に「伝説」が生まれた瞬間だった。

Tさんがこれほどまでに歌がうまいということを誰も知らなかったらしい。

Tさんは、何十年も昔、遠くの村から17歳で嫁いできた人だった。

朝から夜まで夫に従って農業にいそしみ、6人の子供をもうけ育て上げた。

母の話では、無口で、小柄な日焼けした土の塊のような農婦にしか見えなかった。

だが、受け継いできたDNAは、どうやら絶対音感にすぐれ、

歌なら1度聴いただけで憶えるといった人だったらしい。

娘さんの一人はとても歌がうまく、

ピアノも数度聞いただけの曲を弾けたらしい。 

だが、Tさんはおそらく音楽の道に進みたい、とは

一度も思わなかったのではないだろうか。

職業や環境は自ら求め勝ち取ってゆくという感覚は端からなかったようだ。

TVやラジオからの音はもちろんだが、鍬を振り土を打つリズム、

竹林を渡る風のゆらぎ、小川のせせらぎ、子供たちの歌う歌、・・・・・・

豊穣な交響楽の流れの中に自らがいることを淡々と受け入れていたからだ。

それ以前に自分に、才能や素質があるということさえ気がついていたかどうか。

人はそれぞれ自分のプログラムを歩む。

ゆったりでもよいし、激しくでもいい。

びくびくしながらでもいいし、小賢しくてもいいだろう。

Tさんは大河の流れにゆったりと乗った。

追うようにTさんの伝説も河のかなたに流れ去ろうとしている。




船を建てる

s-船を建てる


先日は『舟を編む』だった。

今日は『船を建てる』(コミック、鈴木志保著、秋田書店)

船(舟)の後に「編む」、「建てる」、など

用法的には先ずありえないところが面白く、気がかりになる。

『船を建てる』は師匠から薦められて読み始めて、

早4年が経ってしまった。

上下2巻、あわせて約800ページ、読みきったのは132ページまで。

未だに先へ進めない。

理解しようとするから先に進めないのである。

思考を否定する拒絶する仕掛けがあるようにさえ思えてくる。

コミックではあるけれど、

例えば「ゴルゴ13」とか「バガボンド」など

とはまったく異質のものだ。

ストーリーがよく分からない。作者のメッセージが私には見えないのだ。

おそらく、そのような意図は初めからないのかもしれない。

もどかしいのは時の流れがつかめないこと。

さらに絵に奥行きが感じられない。

言い換えれば時間空間の存在が希薄で異次元に漂っているかのような

覚束なさなのである。

一瞬、そこに快さが湧くこともある・・・・・・、(これはすごいぞ)。

だが私の脳は確かに絵を認識はするが、いまだに、ほとんどを心理的に生理的に受け付けきれない。

ストーリーとは文章や絵を鏡として観る、そのソースは自分の中にある。

自分の中にあるものを、外に出して自分が観る、それがストーリーとすれば

中に何もなければ見えないもんね、ということになる。

私の中に、私にとって異質な存在をまだ許さない部分がある。(当たり前か)

これは新鮮な驚きではある。

『船を建てる』には根強いファンが多いそうだから、

きっと新世代のヒトが育っているのかもしれない。

s-船を建てるのなか






舟を編む

-舟を編む


『舟を編む』(三浦しをん著)は書店の目立つところに平積みされていた。

「2012年本屋大賞 第一位」受賞の帯が晴れがましい。

全国の書店の店員さんが薦める本だから、面白くないはずがない。 

出版社の辞書部門に勤める無器用な青年が、一途に、ひたむきに、

時には鬼気迫る如くに辞書つくりに携わりながら大きく成長してゆく物語だ。

くすっと笑い、感動し、辞書つくりの裏面をのぞき、また感動し

時に目がウルウルとなって、深夜に読了した。

書棚にある久しく手にしたことのない「広辞苑」を開き、

一生読むことはないはずの自序,後記などを読んでもみた。

3次元の視野がすこし広がった。

この世はやはり面白い。楽しめる。

さて、「感動するとは」どういうことか。

われわれ流に言えば、

目の前に展開する事象はもともと自分の中にあるものだから、

わが鏡に映るものを本の中に観た、と言うことだ。

遺伝子の記憶がよみがえり(?)、刷り込みが共感を呼び、思い込みが疼く。

「感動」は、感動するべきフレーズに反射が起きたときに胸にぐっと来るのだ。

自分の中の『良き部分』が何回も共鳴し感応したのだから快いはずだ。

要するに『私にとっては「この本」はとても分かりやすかった、よい本』ということになる。

自分の中をのぞいたのだから当然なのだ。

優れた作家は、多くの共感のチャンネルを自らの中にもっている人なのだろう。



今日5日は立夏だ。

今年も冬が過ぎ、春が過ぎ、もう夏が来た。

おう、耳を澄ませば雲雀が啼いている。


*この本には実際の舟は出てきません。次のような件があります。

「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。・・・(中略)
・・・もし、辞書がなかったら茫漠とした大海原を前にたたずむほかはないだろう」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」




従容として

目の前に展開する出来事を、ともかく肯定して受け入れる。

たとえ自分にとって不都合であっても、嫌であっても、正面で受け止める。

淡々と従容として一切の作為を捨てる。

この時に、経験から、事は明らかに好転につながるように思う。

自然に感謝の念が湧く。

逆に何とかしようともがくほど、

底なし沼に落ちるように足をとられ沈み込んでゆく。

事はさらに暗転し、明るい兆しは見えなくなる。

自分自身と他への限りない怒りや憎しみが湧き上がり、さらに苦しむ。

思い込み、刷り込みは予想以上に強く、さらなる制限をかけてくる。

失敗はないし、うまくいった、などの判断は不要なのだ。

淡々と眺める。

変わる必要は無い。そのままでいいのだ。



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プロフィール

ロックエヴァ

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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