心のくせ

60代の男性、Tさんの話から。

「自分のやっていることをよく観察すれば、完成の一歩手前で放り出すという悪い癖がある。

厚い本を読んでいてもあと2,30ページのところで止める、

たとえば趣味のプラモデルを作っていても完成間近で止める、

憧れのアマチュア無線の免許を取ったとたん興味が消えてしまった。

片付け物をやっていても最後までやれない、

慎重な性格なのに職場を何回も変わった、

受験勉強は、高校3年の10月に放り投げ、あとは不安を抱えながら

本を読んだり、映画に夢中になったり、だった。それまでの蓄積でやっと

大学に合格はしたが、不完全燃焼の感はずっとつきまとった。

何故だろうかと、記憶をたどったが長い間よく分からないままだった。

最近、ふと気づいたことがある。

小さいとき、一生懸命に作った模型飛行機を喜び勇んで母親に見せたら、

勉強の邪魔になるからと叱られ、とりあげられてしまった。

それからも何かをして、がんばったのだけども、常に叱られるばかりであた。

親は机の前に座っている限り安心しているようだった。

度重なるうちに、夢中になるものがなくなってしまい、興味が湧いても

心に強いブレーキがかかってしまう。

さらに、妻に「何かしよう」と提案して反対されると、突然烈火のごとく怒りが

湧き上がるこのパターンは、今も変わらない。」

と言うことだった。

その母親もすでに他界している、複雑な家庭だったらしい。

Tさんには、母親との和解が必要です、と答えたが、今でも悲しみと怒りしかありませんと言う。

母親が思い出されたときには「赦す」と言いましょう。

「湧き上がる感情はじっくりと味わいましょう、手放すにはこれしかありません。

心地よいものではありませんが、これからのあなたの課題です。」

さて、このようなパターンは結構多いようです。

母親もまた、このような経験をしてきた可能性があるようです。

因果は巡る、どこかで断ち切らなくてはなりません。

これこそが先祖供養というものです。

老子より

「戸を出でずして、以って天下を知り、牅(よう)を窺(うかが)わずして、以って天道を見る」

家を出なくても、窓から外をうかがわなくても、天下を知り、天の道をみる、ということです。

15年ほど前に老子に出会ったときに一番惹かれた一節です。

2500年前の言葉ですが、妙に惹かれます。

肉眼で見なくても世の中の動きや宇宙の働きは見えるのだ、と言っています。

現代にあっては、メディアが伝える情報は虚実の混じった混沌としたもので、

かえって真実が見えなくなっています。

それさえも自分中のフィルターを通せば、さらに各人が違ったとらえ方になります。

無数の天下があり、宇宙があるというわけです。

だからすべてが幻想である、ということになります。

極論ですが、すべての社会現象は肉眼で見る限り虚像です。

実像はエゴの目にしがみついている限り「見えない」。

われわれは当分の間、虚像の海に浮かぶ他はないようです。

外を外と見る限りにおいては、です。



えんぴつの力学

われわれは誰であっても、経験から次のようなことが言えるようです。

求めれば、逃げてゆきます。

たとえば、お金や女(男)、地位や名誉、幸せ、健康、自分が望む人間関係など・・・・

逃げると、追いかけてきます。

たとえば、借金、女(男)、病気、不安、憎しみ、嫉妬、自分が嫌な人間・・・・・

ですから、落語の「饅頭こわい」などの噺が生まれます。

エゴの本質をついていますね。

われわれには「えんぴつの力学」という師匠の言葉があります。

尖らせた2本の鉛筆の芯を触れ合わせて、一直線におきます。

一方の鉛筆を押すとすぐに直線が壊れ「くの字」形になります。

芯は滑ってしまい互いに離れてしまいます。

こころをニュウトラルに保つことが大切です。

選択の自由度を常に保つことです。

と言うことは、追いかけたり、逃げたりしないことです。

求めて追いかけるのはエゴ、逃げて逃げて追いかけられるのもエゴの仕業です。

自由とは、いいかえればエゴを抑制すると言うことになります。

エゴこそが、力みの原因ですからね。

でどうなるか?。

何もなくても、たったひとりでも、気がつけば「とっても幸せ」。

もちろん、お金がたくさんあって、友人に恵まれて、「とっても幸せ」、

でもかまいません。

「とてっも幸せ」ならば違いはないのです。

なぜなら「幸せ」だからです。

(比較するから幸せは崩れるのです。これを思考と言います。)

ルール

思考は、どこかで歯止めをかけないと暴走します。行動を伴えばはた迷惑になります。

思考のほとんどはエゴに基づきますが、歯止めをかけるのもまた別のエゴです。

エゴの産物で埋め尽くされたこの世にあって、究極ともいうべき歯止め、つまりは

エゴ対応マニュアルがあります。それを法律と言います。

社会生活上で生じる不都合を何とかしようというわけです。憲法はその親玉です。

子分の子分あたりには日本では条例、アメリカでは州法などがあります。

そのつど事件がおきるたびに追加改訂されて、「おもろい法」「けったいなルール」が

生まれました。思考は虚構ですね。ネット上にあったものを紹介します。

エゴ大国アメリカの明文化されたルールだそうです。

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いかなる車も後部座席にゴリラを乗せてはならない

水鉄砲を購入、販売、所有するのは違法である(マールボロ市)

市内で核を爆発させないほうがよい(マールボロ市)

ゴミ箱の中で眠ってはならない(アメリカ)

教会で子供がゲップした場合、親を逮捕する(ネブラスカ州)

床屋は午前7時と午後7時の間、タマネギを食べてはならない(ネブラスカ州)

ホテルの部屋でオレンジの皮をむいてはならない(カリフォルニア州)

象を手綱なしで商店街を通らせてはならない(カリフォルニア州)

キリンを電柱や街灯につないではならない(アトランタ)

警察官が犬を静かにさせる場合、犬に噛み付いてもよい(オハイオ州)

魚を酔っ払わせてはならない(オハイオ州)

・・・・・以下略。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アメリカの弁護士は、無数にある法律の中から弁護に最適の勝てる条文(判例)を見つけ出すのが

仕事だそうです。上記の条文も、きっとそのような事例があってのことでしょう。

(エゴの)取り扱い説明書みたいですね。

NYの下町でたまたま火事の現場に出くわしました。

一番最初に駆けつけたのが重いかばんを抱えた若い弁護士でした。

次に駆けつけたのがTVカメラマンでした。

最後に消防車がやってきました。

わが国では、最近駆け出しの弁護士には仕事が大変少ないそうです。

法曹人口が増え始めた背景がありますが、アメリカよりはましなのかもしれません。


フェイスブック

先日、「ソーシャルネットワーク」という映画を観た。

フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグ氏の創業から発展時期までを描いた

実話に基づくものだ。

ハーバード大学の学生だった彼は、女の子にふられ,その腹いせにたくさんの

女子大生の写真や実名を学内のネット上に公開し、「品定めのネットワーク」を作りあげて

物議をかもし大学によって処分を受けるところから物語りは始まる。

学生たちのあいもかわらぬ馬鹿騒ぎや、友情や裏切り、裁判と和解、仲間のスキャンダルなどが

テンポよく盛り込まれ、観ていて飽きない出来映えだった。

アカデミー賞の有力候補だという。

その後彼は世界で最も若い億万長者となってしまった。

1984年生まれだそうだから、現在26歳だ。

中東アラブの動乱が続いている、やがてその勢いは世界に波及してゆくだろう。

そのきっかけの一つがフェイスブックの存在だというが、大学生のいたずらから始まったと言うのが興味深い。

(ただし映画の中、実際にはどうだろうか)

ネット上には匿名の危うい情報が氾濫しており、心無い無責任な発言が無辜の人を傷つけることもある。

Facebookは参加メンバーの顔と名前が分かる、しかしプライバシーの保護には十分なシステムがあるという。

地球規模の信頼できる輪が広がる可能性がある。

数年前に従兄弟の携帯に電話したら「いまイタリアのベネティアだ」と言われ驚いたが、

それも昔の話になってしまったようだ。

新しいタイプの質の高いネットワーク(?)が加速度を上げて広がってゆく。

人類は曙光を見出せるのだろうか。


よろこび2

Lさん

難しく考えず、喜びが湧き上がれば、素直に喜べばいいのです。

たとえそれが自己満足から来たものであろうとです。

なぜならば、私たちは喜ぼうと思って喜びが湧くものではなく、

怒ろうと思って、怒りがわくものではありません。

私たちの喜怒哀楽、言動、思考といったものは

すべて受動ですからね。

「私」が、意思を持ってその結果を決定することはもともとできないのです。

分類し分析し考察するという思考の罠にはまってしまってはいけません。

それさえも受動ですからね。

「記憶力」シールを使って受験したら合格しました、という報告が相次いで

寄せられるようになりました。素直に嬉しいです。



続ける

小学校3年生の担任をされているクライアントのMさんから聞いたお話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

クラスのK君は4月初めの頃は漢字のテストが20点や30点しか取れないくらいの

落ちこぼれの生徒でした。

ところがある日、あるきっかけで毎日200字を自らの課題にして、

漢字帳に書いて提出ようになりました。一気にまとめて書くのではなく

毎日、200字でした。宿題があろうとなかろうと、夏休みも毎日、来る日も来る日も、

毎日か欠かしたことがありません。

それからおよそ10ヶ月の今、漢字テストは常に満点を取るようになりました。

字が見違えるほどきれいになりました。

同時に、不振だったほかの教科もそれなりに力がついてきました。

もともと不器用で無口だったK君ですが、

最近はユーモラスな面があることもわかってきました。

ゆとりが生まれ、本来の良さが出てきたのではないでしょうか。

あるきっかけとは、K君のお母さんが大病をされ、死を覚悟したときに

K君に真の自立を促したのではなかったのかと思います。

K君もお母さんも偉いです。

継続してコツコツと単純なことをくりかえしてきました。

それだけのことですが、頭の良い器用な生徒にはなかなかできないことです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

クライアントのSさんは8,9年前にうちにこられました。

事業で行き詰まり、身体を壊しかなりくたびれた様子でした。

当時40歳くらいだったと思います。

そのころ師匠から肛門を締め上げると運が良くなる、と聞きましたので

さっそくお伝えしました。それから毎日、これだけを続けて来ました。

現在、健康で事業はとても順調だそうです。

見る影もなかった姿が今はきらきら輝いて自信に満ちています。

(肛門を締め上げると、しばし思考が停止するそうです。すこしですがエゴが抑制されます。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「扉を開く」は意外にシンプルなところにあるようです。

継続もその一つです。

シンプルだけど易しくはない。


よろこび

Lさん

先日の師匠のお話の中に

「苦しみは分かち合い、喜びはひとりじめ。」

という言葉がありました。

早速、クライアントさんから私に質問がありました。

「喜びを独り占め、はどんなことでしょう」

師匠のお話を解説するのは私の役目ではありませんが、

わたしの咀嚼した範囲でならばお話しましょう、

ということで次のようにお答えしました。

「喜び」ですが、相対的な価値観に縛られたものは本当の喜びではなさそうです。

大学合格、いい響きですが、その影に不合格となった人のうめき声がありますね。

商売繁盛、いいことですが、隣のお店の激しい嫉妬があるかもしれません。

一例ですが、これらの喜びは暫定的、限定的なものです。ふつう我々の言う喜びは

「自分にとって」どうなのか、という枠がかかっておりよく見ればエゴの満足にすぎません。

後に苦しみにさえ変わる可能性だってあります。

立場が変われば苦しみにもなりかねません。

もちろん、我々が努力の報われる社会に住んでる「幸せ」は認識しておいたほうがいい。

このことを知って、それでも喜ぶことは悪くはありませんが。

本当の「喜び」は自分で得たものではなく、求めたものではなく、

気づけば、ふっと傍に寄ってきた、言いようのない幸せ、慈しみ、愛おしさ、

などではないでしょうか。

それならばそのフィールドは瞬時に周りに広がります。

あなたが何も言わなくても周りの人はその喜びで温かさにつつまれるでしょうね。

ですから独り占めと言いながら周りが和むのです。説明はいりません。

あなたが中心となって瞬時に同心円に広がる喜びの輪です。

喜びのきっかけは何でもよさそうです。

わが子の寝顔の愛らしさでも、水平線から昇る壮大な朝日でも、居酒屋のコップ酒でも。

実は、それ以前にすでに「喜び」が準備されているからですね。

心が喜びを前もって選択していると言うことです。

きっかけは方便ですね、喜びの現象を理解するためのね。

喜びを口に出してもいいでしょうが、言葉にしたとたん消える可能性があります。

エゴが滑り込んできますから。

長々と書けば、なんだか説得をしているようです。

説明したくなる私の悪い癖です。

思考が湧き始めますので、ここで止めておきます。



変える

もしあの時、あんなこと言わなかったら、

もっと勉強して、もっとましな学校に行っていたならば、

この人と結婚しなければ良かったのに、

あの日、反対の選択をしていれば、

・・・・・・・・・・

延々と続くのは後悔の念ばかり。

人生の曲がり角に来たときに誰もが思うようなことだ。

そして、

よし、がんばって人生を変えよう、

朝の来ない夜はない、

いつでもやり直しはできるのだ、

どん底から這い上がる勇気はある、

思い立ったが吉日だ、

本を読もう、あたらしいセミナーに参加してみよう、・・・

知らない町を歩いてみよう・・、

・・・・・・・・・・

実は後悔する必要はない、同じことだ。

立ち上がろう、変えよう、新しい人生を、と決意しても、やはり無理だろう。

それらはすべて自分の中に設定されているデザインなのだ。

どんなにあがこうと、あらがおうとデザインどおりの人生に終始する。

人生の物語のなかで、登場する人物は変わるが自分の役はほとんど変わりない。

振り返ってみれば30年前の自分がここにいる。

肉体は老いても役回りは同じ・・・。

では、どんな努力も意味がないのか。

じゃ、すべてを放棄して虚無に生きるか、

いやいや、それもデザインに織り込み済みなのだ。

すべてが受動なのである。

では、希望はないのか、何とかしたいのだ、この決意は意味がないのか。

無い。

根本から間違っているからである。

思考を停止する、心の中で会話を止める、ミをいれる、・・・・

万に一つだが、この先に曙光が見えるかもしれない。

人類は数万年の歴史を経て幸せか、何をしてきたというのだ?

いやこれも思考。

扉はそこに開いている(にちがいない)。


臆病

臆病とは、ちょっとした物事にも怖れること。

小心ともいう。びくびくした怖れおののく心の状態にあること。

われわれは誰にもこの傾向はあるが、対象は人によってさまざまである。

人間関係であったり、自分の体のことであったり、お金であったりする。

たとえば人間関係ならば「所属の欲求」が損なわれそうな「気が」して、

そのことを怖れる。

自分は感受性が強くて敏感、傷つきやすい、繊細なヒトと思っている、

さらには優しくて、犠牲心に富み、自分さえがまんしさえすれば・・・・、

どうしていつも自分はこういうような立ち回りばかりなの?・・・・

心はいつ果てることなく堂々巡り、はては自己否定の重く暗い部屋に閉じこもる。

私は、エゴはほとんどありません、ただ辛いのです、神様助けてください・・・。

こういうヒトは、自己観察が不足しているヒトである。

自己愛傾向が強いので、自分は正しい、人が悪い、自分は他人から迫害されやすい

などの思考が優先し、自己観察など思いもよらない。

単に、自分の防衛を強く主張しているだけ。

相手に対して常に緊張を意識し続けるだけ。

つまりは心が強くエゴの方向を向いているだけの、エゴイストなのだ。

エゴの向きとは喪失の怖れへ引かれてゆくこと。

自他の区別はより厳しく鋭く知覚され孤独感だけがつのってゆくばかり。

職場を変わろうと、住むところを変えようと、時代が変わろうと、同じなのだ。

このような膠着状態が続くと抜け出すのは容易ではない。

精神世界にはこういうようなタイプが多い。

「願い」をぶらさげて「力を求めて」果てしなくさ迷う。

われわれならば、

見切る。

仙骨に意識を置いて響きを聞く練習をする。

今まで馬鹿にしていた泥をかぶることをいとわない。

つまり、境界をあいまいにしてゆくことだ。

新しい一歩を踏み出すには痛みを伴うことはある、逃げないでね。




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プロフィール

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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