「病は浄化、解毒を求める叫び声である」ヒポクラテス

「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」といわれた人の言葉だ。

紀元前5世紀のギリシャ時代の方である。

なお、東洋にあっては、釈迦、老子もほぼ同時代の方である。

たくさんの方を診ていると、病から何とか逃げようとする人ほど症状が改善されにくい。

経験的に自分の体の不調の部分を憎み、毛嫌いし、排除しようとするほど症状は悪化する。

現代医学はこの傾向が極めて強い。

薬で抑え付け、感覚を麻痺させ、余計なものは切って捨てる、焼く。

病は敵視するほど抵抗する。エゴのアルゴリズムそのものだからだ。

病は、生き方や心のあり方の修正の時が来た事を教えてくれる大切なシグナルだ。

心身の浄化の第一歩だ。直視しよう。

軽い痛みなどは、そこに意識を向けるだけで軽くなる。

難病のQさんは、もともと知識欲旺盛な人だ。膨大な本を読み、

インターネットで調べ、知らぬ間に知識だけは医者よりも詳しくなっていた。

そして症状はいっこうによくならない。

同じ状況にあった老婦人が、ゆっくりとではあるが改善に向かっているというのに。

知識とは怖れの裏返しだ、逃避を正当化するだけのもの。浄化、解毒とは向きが違う。

人は、何千年たっても変わらないようだ。


青空柿。縮小


高く、抜けるように青い秋空を背景に柿が実りはじめた。

早速、カラス君たちが集い始めたが、まだ少々渋いとみえて様子を見ては

羽音高く飛び去ってゆく。

いつもこの時期になると、われわれが先か、カラス君たちが先かでバトルとなる。

われわれは、渋柿を剥いて甘い干し柿を作る事を知っている。

明日にでも、もぎ取る予定だ。

ただし、カラス君の好きな熟柿になる分はきちんと残してあげよう。

共存は大切だから。

カラスは不思議な鳥らしい。

確かに、その一つにカラスの死骸を見たことがない。

ある人は、違う次元に行くのだとさも真剣に話しておられる。

私も見たことはない。確かに不思議だ。



道元

道元を体系的に深く読んだことはない。解説本か名言集の中にふと、目に付くものを

見つけて自分なりに楽しむだけである。次の一節はそれなりに分かる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仏道を習うというは、自己を習うなり。

自己を習うというは、自己を忘るるなり。

自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身を脱落せしむるなり。

悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。(正法眼蔵)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仏道とは、解放の道だ。生老病死への恐れから生まれる苦から心が自由になることだ。

心が、愛へ深い安心感へ穏やかさへ向かうことだ。

そのためには、まず自分自身を見つめることである。

自己観察である。われわれは、難しい理屈は抜きにして、

「見切る」 「身を入れる」技法で比較的簡単にこの段階を経験することができる。

もちろん身につくまでにはある程度の時間はかかるが、誰にもできる。

自己を習うとは、実践的にはそういうことだと思う。

そのことが、エゴ(自我)という作り物、こわれもの、の存在を知り、無力化できる、

つまりは自己を忘れることができるということだ。

これは以後の人生を、鮮やかなほどシンプルにしてくれる。

そのことは万法、つまり膨大な意識の意識に意識されている事がわかるということだろう。

それによって、自他の境が消え、心身という現象から解放されることだ。

休歇とは、辞書によれば、

「心がどっしりと落ち着き、環境に影響されないこと。大安心に安住すること。また、そのさま」。

われわれの学び進む行程に実によく似ている。

だが、道元さんよりもシンプルな分だけに難しいとも言える。

トレーニングはまだまだ序の口である。先へ向かう道筋は明確とはなった。



たまぞう君

猫のたまぞう君が3日ぶりに餌を食べに来た。

しばらく、ゆっくりとお昼寝などをしてどうやら帰りそうな様子が見える。

自分の置いていった子猫たちをいとおしそうに眺め(?)、

あたまを上段への上り口に向けた。

いつもの帰りのしぐさである。どこから来ているのか尾行することにした。

今日こそは、草払いも終わり見通しがよくなっているから、見失うことはないだろう。

そっと後をつける。ゆるやかな階段の途中でこちらを振り返りしばらくたたずんだ。

私も知らん顔して、10mほどのところで止まって待つ。

5分ほどたってまたゆっくりと歩き出した。

階段を上りきったところで,再度振り返る、用心深い。

つぎは、竹林をはさんで隣家のビニールハウスがある、現在は使用されていなくて荒れ果てている、

その中に迷いなく入ってゆく。お、ここが隠れ家か、と思ったら違った。

ここでしばらく身づくろいなどして、あくびをして、さらに先に進む。

ハウスを抜けると草むらが続き、うっかりすると見失いそうだ。20mほどの間隔を保ち

さらに尾行を続ける。

草むらを出るとそこはかなり広い市道となっている、

そこをわたりさらに畑沿いの道をすすむとK家の庭に続く、

そしてたまぞう君は迷う様子もなくK家に入り裏に回って、いつもの道ね、

という感覚で何の警戒もなく、かっては使われていたタバコ乾燥場に入っていった。

たまぞうくんの本拠地はどうやらここかもしれない。

K家の人に聞いてもよいが、微妙なところがある。ためらわれるのだ。

思うに、K家では、別の名前で呼ばれ、しかも餌をもらっているかもしれないのだ。

たまぞうくんは二重所帯で、2つの名前をもち、1年近く私の尾行をまいてきた。

何だか、秘密情報員のようだ。尾行した私は、探偵となっていた。




ヴィオロン

タバコを買いに、最近できたばかりのコンビにいった。

いつものタバコを指示して、たずねた。

「年齢確認はしなくていいのですか、免許証ならありますが」

「いえ結構ですよ、お客様は3人分の年はありそうですから・・・・、ふっ・・・」

「はは、そうですか」、

アラフォーの美人店員さんにつづけて言った、

「あなたは、一人分ですかね・・・・・・」

彼女は言った。「いえ、私は吸いませんから・・・、次の方どうぞ・・・・」

「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」
(ヴェルレーヌ・上田敏訳)

師匠から、「眺めるとタバコがまずくなる画像」をいただいている。

活用しなければ、この2年間の禁煙生活が無駄になる。

過去の思い出を断ち切るには更なる苦難が待っている。



Lさん

急に寒くなりましたね。

紅葉がきれいです。

でもまだ植物はすべてが冬眠体制にはいったのではありません。

せっかく刈りそろえた沈竹の垣根がまた延び始めています。

ためしに聴診器を当てると、ごうごうという水流が聴こえます。

細胞が見る見る積み重なり、縦横に広がり、厚みができてゆくのがわかります。

竹は日に2,3cmのびます。すごい生命力です。

何億という細胞がわずか一日で作り上げられていのです。

見慣れてはいますが、ただ驚くばかりです。

自然の驚異、という語句ではありません。

目の前の現実です。

多分われわれ自身も同じです。

命あるものは同じ原則が働いているはずですから。

気がつかないだけのようです。

葉が落ちるのも、花が咲くのも、命の輪舞です。


ある日

仕事の合間を縫って、そう、2~3時間が空くと、いそいで作業ズボンに作業服、

ゴム長か地下足袋、ヘルメット姿に変身して、庭木の剪定や垣根摘みに精を出す。

先日、垣根摘みをやっていたら、駐車場に車が入ってきた。降りてきたのは

賑やかな女性の一団だった。「ま、センセー、かっこいい、よく似合うわ、」

「地下足袋レトロじゃん・・・」、「ヘルメット、かわゆいわ~~~」

私の日ごろ見せない姿を見られてしまった。何となく気恥ずかしいものだ。

私が、勉強会の日である事を完全に忘れていたのだった。急いで、「水」を浴び、

仕事着の、GパンとTシャツ、ボタンダウンの白いシャツに着替えて、

オフィスに入る。「あら、汗流した後はいいわ、顔が引き締まって・・・」などと

勝手な事を言っては、笑い転げ、勉強会が始まった。

この日のテーマは「日本と中国について、エゴの観点から考えてみよう」であった。

切り口はいくつもある。「去年上海に行ったときのこと」「戦時中の満州での話し」

「100円ショップの製品は・・・」「いとこが中国人の技術者と結婚したものの」

「新宿歌舞伎町って、知ってる?・・・」「孫文さんがウチの親戚と親しかったとか」

「毛沢東は大躍進運動で1億人を餓死させたって・・」「中華街での料理店の裏では」・・・・・・

中国は近い国だ。15億の民がいる。15億の人生があるのだ。

本当のところ実態はどうなのか。相手はカゲロウのように見えにくく、

玉虫のように見る角度が違えば色も変わる。見る立場がことなれば、

それぞれ違う姿を見せてくれる。

以前知り合ったウイグル族出身の貧しい大学生はこう言ったものだ。

「中国、決して一つではありません。国民の連帯感はうすいです。愛国心はありません。

しかし愛郷心ならあります。」

それが本音だろうな。

水と油を溶かしあうには石鹸がいる。

その石鹸が見当たらないのだと言った。

共産主義はエゴの作り物の最たるものだ、人の心をつなぐ事を完全に無視していた。

実験はソ連の崩壊で終わったのである。作り物はいつかは壊れるのだ。

スターリンや毛沢東といった怪物の跳梁を許すような体制は

人のエゴの凝縮した縮図であったのだ。



保健水飲んで、何事も都合よいことばかり、ではないのですね。

エゴにとっての都合ですが。

デトックス(排毒作用)が起きて、結構つらい日々続いたりしました。

とくに最近、悪夢をよく見ます。

脳が作った幻影です。

つまりエゴの抵抗ですが、私にはこれからはもっと激しくなるでしょう。

エゴは変化を望まないのです。

そして、外に原因を探すように仕向けます。

何かの取っ掛かりがあれば、直ぐに引っ掛けて変化への抵抗を示します。

いまこそ自己観察が大切のようです。

わたしは、エゴは自分の本質ではないことを、長いことかけて知り始めました。

仕分けが少しできるようになったのです。

いろいろあっても、

私の表現でもある肌はつやつや、心は穏やか、たいていの時間は気分良好です。

人間関係も思わぬ展開があったりしておもしろいです。


師匠の言葉

「行き詰まらなければ、そのまま楽をしようと思っていたんじゃありませんか。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

楽をしようとするのは、当面の与えられた課題から徹底的に逃避することだ。

適当にお茶を濁して真正面から受けて立つ事を停止していることだ。

楽ではあるが、少し掘り下げれば何らかの恐れが蠢いているのが分かる。

あるいは、怠惰という心の暗さだ。分かっていて灯りを避けるのだ。

目の前に落ちている小さなゴミを、次に掃除機をかけるまでそのままにしないで、

何も考えずに、直ぐにつまんでゴミ箱に入れる、ただそれだけだ。

小さいことのようにみえてこれがすっとできなければ、

心はエゴに偏ってると思ってよいだろう。

課題には大きい小さいはない。金額の大小でもない、空間的な広がりでもない、

時間経過でもない、やるかやらないかだけ。

こうして積み重ねてきた自分が、ほら、ここにいる。



納屋

用があって近所の農家の納屋を訪ねた。

強い印象を受けたのは、

農機具が見事に手入れされて、整然と整理整頓されたいたことだ。

鎌はピカピカに磨き上げられ研がれており、整然と鎌掛けに並べてある。

用途別だから、20本ほどだ。壮観でさえある。

鍬も最近はあまり使用しない所が増えたが、

それでも錆一つなく磨いて20本以上も桟にかけてある。

脳と骨格と筋肉と道具がダイレクトにつながっていた時代が、

つい最近まであったことに思いがけなくも気づいたものだ。

自然と対話し許可を得て作物を作らせていただいた原点はまだ残っていたか。

外に比べ薄暗い納屋の中で整然と並べられた農具は、神農を祭る祭器にも見える。

稲刈りを終えたばかりの稲刈り機も水洗を終え注油も済んで、来年に向けて

きちんと整備されていた。

腕のよい職人さんの作業場と同じような、独特の緊張感とプロ意識が

納屋全体に漂っていて、すがすがしい気持ちになった。

当たり前のことではあるが、兼業農家ではなかなかここまではやらない。

筋金の入った農家がまだある事に、みんな気づくとよいのだが。

農家は現金収入が出にくい職場だ。取り巻く環境も厳しい。

政府は食料自給率の向上を唱えているが、今もって当てにならない。

この農家の信条は、「減反しない、政府のいうとおりにしない、農協には頼らない」

である。

プロは道具を大切にする、手入れを決して怠らない、他に頼らず、知恵と勇気で

自ら道を切り開いてゆく。新農法の研修、研究も欠かさない。

学ぶことが多かった。




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プロフィール

ロックエヴァ

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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