梅の香り

Lさんへ

「梅が香や隣は荻生惣右衛門」(其角)  

一時期、松尾芭蕉の高弟でもある天才的な俳人其角の家の隣に住んでいたのは、

元禄時代の最高の思想家、政治学者、哲学者、荻生徂徠(惣右衛門)です。

彼の言葉、「 我が心をもって我が心を治めんとするは,狂者自らその狂を治むるごとし。

 いずくんぞよくこれを治めん。」 「弁道」荻生徂徠

以前、この言葉を引用したことがありました。

心というものが何であるのかがまだ分からなかったのでしょうね。

膨大な意識とエゴという対比ができてないようです。

つまり未だ混乱の中にある。

きっと、辛かったでしょうね。同情します。

彼ほどの方でも、かくの如し。

私たちはこれを超えようとしている?。

分かりますか。またとないチャンスです。

何十億の時間の流れの中でであった千載一遇の奇跡、分かればいいのですが。




其角

「御秘蔵に墨をすらせて梅見哉」

300年ほど昔、ちょうど今の季節、江戸のさる名家の離れの座敷によばれた其角がそこにいる。

御秘蔵とはなんだろう、解説本に頼るほかはない。

いわゆる貴人のご寵愛の妾、ないしは美男のお小姓かもしれないとのことである。

当時は衆道もいわば「道」珍しくはなかったようだ。

で、見目麗しいお妾(あるいは小姓)に墨をすらせる、

名だたる硯に銘墨、

磨るごとに墨の薫りがのびやかに広がってゆく、

開け放たれた障子の向こうには数千坪の広い庭、

めぐらせば、梅が満開である。其角は請われて筆をとる。

そのときの句がこれである。

貴人へ軽いからかいのような感じもするが、どうなのだろう。

平然とこのような句をその場で詠むのもまた其角らしくていい。

時は元禄、関が原の戦から100年ほど過ぎ、

大都市、江戸の美意識がまさに花開こうとする時代であった。

初期の浮世絵が現れたのもこの時期である。







見切る

「見切る」とき、その言葉を、

強く思いながら、心をこめて、例えば「怒り」、「憎しみ」等と言う、

できればそのときの光景をありありと思い浮かべながら言う、

時間を決めて集中してやっていますという、一生懸命に丁寧にやっています、

ということを、複数の人から聞いた。

ああ、なんということだろう。

大きな誤りである。

エゴを無力化しようとしているのにエゴを強化してしまっている。

こういう変な見切りはしてはいけない。

いや「見切り」とはいえない代物。百害あって一利なし。

フット湧き上がった感情に対し、軽く、淡々と、あるいは事務的に見切る言葉を言うだけでよいのだ。

また、発声しなくてもいい。

さらに、「見切る」意味付けや、そのことを理解しようなどとしないほうがいい、

機械的に淡々とこなす。

考えを出来るだけはさまないようにする。

やはりこれも練習の積み重ねが必要だ。

概念が一人歩きすればどうしてもはずれてしまう。



赦す

罪悪感とは、「誰かに」赦してもらい救われたのだ、お陰でやっと罪滅ぼしが終わったのだ、

というストーリーをエゴが承認してしまったために起こった「恐怖心」である。

つまりはエゴの働きである。

生真面目な人ほどなぜか罪悪感にさいなまれるが、

生真面目とはいつも「恐怖との同居生活者」なのであり、

常に外に赦しを求める悲しき人なのである。

だから、罪悪感から解放されるには、このことを認めてしまうことなのだ。

自分を徹底して観察することからしかことは運ばない。

何かを犠牲にして罪を贖う、ということはわが外に力を承認することだが、

外は内の反映であるとすればこれほどおかしいことはない。

力は膨大な意識にしかないのである。

いまは知識の範疇にしかないだろう、しかしそれでかまわない。

われわれはいかなる状況にあろうとも、自分を赦すのは自分自身である。

何事も「赦す」でいい。

「悩み」はまた新たに外に力を承認することに他ならないのである。

仏や神が赦すのではない。

心優しきわが友よ、悩むなかれ、「赦す」で見切れ。


野生

猫のたまぞう君は家の猫ではない。

野良猫である。うちに姿を見せるようになったのは去年の夏ころだったと思う。

やせて毛並みが荒れて明らかに栄養不良の様子が見られたので、

以前飼っていた猫用の餌の残っていたものを与えたのがきっかけで、訪問猫となったのである。

近くによっても30cm以内には絶対入らない、もちろん、抱っこしたり撫でることは出来ない。

無理に近づけば、すっと逃げる。

「たまぞう君」、と呼びかければ「ぬぁ」と微かにこたえるが、何回も呼びかけるとそっぽを向く。

付かず離れずのいい関係なのである。

たまぞう君がどこに住んでいるのか分からない、後をつけたがいつも見失ってしまう。

多分農家の納屋か床下にねぐらがあるのだろう。

あるいはどこかの家で、別の名で呼ばれているのかもしれない。

謎の多い訪問者なのだ。

先日深夜、外に出てみると、たまぞう君が何かを抑えこんでいた。

家の窓から漏れる光に浮かんだのは、捕まえたネズミの頭をバリバリと噛み砕き咀嚼している姿だった。

口周りを血で真っ赤に染めて、その姿は野生の猫族の本能そのものであった。

たまぞう君と呼びかけても返事はない、

ひたすらバリバリと噛み千切り呑み込む誇り高き野良の猫であった。

おみやげをもってきてくれたたまぞう君とは違う野性に返った姿であった。

多分、明日はうちに来ないだろう、栄養たっぷりの食事をしたのだからね。



逃げない

火の粉が降り注ぐ前から逃げることが、先見性があるとされてきた。

火の粉を見越して対策を採ることが大切だとされてきた。

それはそれで大切なことだ。

しかし、昔から火の粉は予想を超えた時、ところ、立場、場合、などにやってくる。

人のちっぽけな頭の創った予想などはなから相手にならないのだ。

「想定外」というセリフのうつろな響き。

だから、起こってからでいい。

そのときに全力を尽くす。

逃げない。

無防備になる。

大きな器になるチャンスは必ず来る。

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師匠の言葉

「あなたが創り出した制限はあなた自身でしか取り除けない。」




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ガン対処にクリックして申し込まれたかたへ。
師匠のコメントが続いています。どうしても真摯に読みたい方はご連絡ください。管理者


雑感

あなたの見ているものはあなたの心の鏡です、とは昔から言われてきた言葉である。

こういうような見方はおそらく日本人の原初の時代からあったかもしれないし、

8世紀ころには仏教思想の一つとして日本にも伝わってきている。

いわゆる「唯識論」なのだが、当時も今も難しいことには変わりない。

全ての存在は根本心から生じ、外界には何も存在しないという思想である。

自分、他人、身体、森羅万象、宇宙の果てまで、すべてが心の作り出したもの、

だからこころの態度を変えれば見る世界も違ってくる、ということである。

しかし時とともに、一般には道徳律の一つとしての表現にしてしまってきた。

人間関係改善の概念の一つにしてしまった。

道徳とは人の考えであるから、エゴの枠内にある。

心の鏡という法則を、さりげなくエゴのフレームの中に入れ込んで、

軽く目を向けさせるだけの存在にしてしまったのもエゴなのだ。

確かに、見方を真逆にするわけだから、これは目まいがするほど戸惑うことではある。

とても難しいのは確かだ。

私自身は30年ほど前、一度二度、唯識論を読んだことがあるが、ほぼ忘れ去っていた。

ただ、唯識論とは宗教ではなくて深層心理学だ、と気づいたことは確かであったが。

それから何年もの時が流れ、イマジンによって初めてこのような見方に触れたといってよい。

実践を伴った体験の始まりである。

膨大な意識、エゴというものの対比がなければ、いまでも何がなんだか分からなかっただろう。

哲学の徒ならまだしも、唯識論を読んで迷路にはまるより、

「見切り」を繰り返して解放の道に進んだ方がはるかに成長へとつながるのではないだろうか。

実生活の中で生かされてこそ、学びの意味があるのだ。

葛藤

以前書いたように、人の脳には「他人の不幸」を喜んだり、

そこからくる「ねたみ」などをひきおこす部位がある。

そのような機能を持つ部位がある以上、

人はわが理想とは裏腹に心の葛藤を常に持ち続けることになる。

永遠に続くかもしれない葛藤、これほど気を滅入らせ恐怖におとしめるものが他にあろうか。

「心優しき人」ほどその苦しみは大きいだろう。

だから、この葛藤は例えば、人々を社会運動や宗教活動などに引き込む原動力ともなった。

それはそれで悪いことではないかもしれないが、

人としての解放への道は永遠に閉ざされたかのように思えた。

多くの人が模索して来たが明快な道しるべは見つかりにくかったし、

たくさんの代替法は考案されてきたが生まれては消えていった。

その誤りは、力で変えようとしたり、こじ開けようとしたからね。見方が反対だったのだ。

さて、この場合、単純にいえば、脳機能を変化させればよいだけの話になる。

この部分を必要に応じて無力化すればよい。

それは、科学的には不可能ともされているが、

われわれは「こころの投影が自分の見ているもの」としている。

こころが膨大な意識の方向を向けば「愛」に目覚める。

「愛」が現実化されれば葛藤は消える。

葛藤を見てきた心が愛にシフトした、こういう公式である。

簡単に言えば、遺伝子の束縛からわれわれは自由になれる、ということだ。

近頃、つくづく思うこと、「ひたすら見切る」。これはすごい。

「変化」の予感がそこにある。


季節


昨日とうって変わって、今日は柔らかな日が射すよい天気だった。

青空が広がり雲がゆっくりと流れ、気がつけば木々の緑や草の芽が顔をのぞかせ始めている。

春が来ている。微かな風にも春のにおいが混じり始めている。

荒涼とした冬景色だったものが、知らぬ間に彩が濃くなり今日がある。

季節感に気がつけば、心も弾む・・・・。

だが、われわれは、「心の選択したものを周りの光景として眺めている」ことを学んでいる。

周りは心の創りだした映像なのだ。

実は、春の兆しや冬枯れの終わりも心の中にあったものなのだ。

四季の変化も心の創りだした映像なのだ。

夏の暑い日に、目の前には春の光景はない、心が夏を選択し、春を意識していないからだ。

基軸となる時の流れも心の創ったものとなる。

だから、すべて変化とは心の反映なのだ。

であるなら、春から冬に変化することもありうるの? そうだよ、となる。

時間の流れは一方方向しかないように見えるが、逆だっていいんだよ。

ということは、われわれには、

もうどうしようもないような刷り込み思い込みがあるということになる。

どうでもいいことだけど、物理学の最先端ではかような研究もなされているという・・・・。


「○○○○り」という画像はこの思い込みをはずそうという働きがあるようで、

身体がいつもとんでもない反応を示す。


二つの生き方

 とてもシンプルな分け方なのですが、

A. とても頭がよくて、何事についても、自分の能力や努力で人生を切り開き、

 自分の力で今の幸せをつかんだ、と確信している人。

B.(平凡かどうかは別にして)全てにおいて『生かされている』ということを根幹として

 穏やかに、喜びと感謝の心で生きている人。

どちらが本当に幸せだろうか。

どちらが人間として生まれた意味に気づいているだろうか。

生き方でいえば AよりもBの方が実ははるかに難しいのです。

なぜならば、Bはもう一つの世界の実在を知ってるからです。コツを学んでいるからです。

Aは未だ知らず。エゴのほかを知りません。

エゴの仕組みがそのようになっているからです。エゴの方を向くのが楽なのです。

Aのように自分の力で周りを変え、従わせ、コントロールして我が意を通してゆく、

素晴らしいように見えて、実は、失う恐怖から逃れようとして、駆り立てられた結果なのですね。

能力があればなおのこと、はたから見れば「お見事」なのですが、どこかに見え隠れする不安。

しかも、力、知識、勝ち取った地位、権力、名誉、財産、などなど、

お飾りが満載、執着心は強まるばかりです。
 
Bは周りの全てが仮相と知ってるから、一切のとらわれがない、

価値観という判断そのものから自由です。

地位や財産が、たまたま、くっついて来ても、

避けはしないが、離れていっても自分のものという自覚はないので何の未練もない。

お金も地位も財産もあればあったで、なければないで人生を楽しめます。

わが心のあり様が自分の見ている世界であり、

人様が見てくれて自分があることを知っていますから謙虚です。

恐れるものががほとんどないのですね。

私たちは、Bでありたいと思っています。



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プロフィール

ロックエヴァ

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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