あさがお

 よく散歩する川沿いの土手に、驚いたことにまだ朝顔が残っていた。形はとてもシンプルで

直径が2,3cmの小さな原生種に近いものだ。色は白、あるいは薄い青である。

勢いを残す夏草の陰に、さりげなく、どことなくはかなげに咲く姿には強靭な生命力を感じる。

あと一週間ほどもすれば暦の上では立冬だ。この調子でいけば霜が降りるころまで生き残るのでは

ないか。散歩が楽しみとなった。

原生種は人の手が入っていないだけに、素朴な美しさがある。朝顔は特にそうだ。

華やかな交配を重ねた栽培種に比べ力強い。金魚も鯉も野菜なども元はそうであった。

楽しむため、競うため、多くの人間を養うため、うまいものを食すため、人々は努力を重ねてきた。

良いも悪いもないのだけれど、原生種に惹かれるのは人の恣意的な、

時に露骨な意図が入っていないからだろうか。

それにしても、昔の大根おろしの辛かったこと、泣きたくなる様な思いで食べさせられたものだ。

山葵と同じ仲間であることを知れば納得がゆく。

遺伝子組み換えの技術は人間の未来を暗示している。

やわらかく、おいしく、収量が多く、栽培に手間がかからず、虫も好まず、ウイルスも嫌いな品種、

ヒト(のエゴ)にとってはなんと好都合なことか。

気づき

 「気づき」とは、「あそうだったのか!、やっと分かったぜ、なるほどね」

とは違います。これは、単にエゴの立場が入れ代わっただけに過ぎません。

ご本人にとっては良いことかもしれませんが、たいしたことではありません。

カレンダーを見て、あ、そうか、今日は○○の予定だったね、などとは違うのです。

記憶の確認でもありません。思考プロセスの訂正でもありません。

感情をなだめるために経典や箴言集を読んで、感情の嵐から逃げることとも違います。

多分、われわれが言う『気づき』とは、表層の意識にあがってくることはないでしょう。

つまりは、顕在意識(思考)では、分からないのです。

エゴの厚い壁にさえぎられた暗い部屋にいる私があります。

その厚い壁にわずかに細い隙間が出来た、そこから差し込む微かな明かり、中の私には分かります

が、厚い壁を己と思っているからには、自分に生じた割れ目など分かりはしないのです。

繰り返し

 『内なる神』との和解こそ何よりも優先されるものだ。

だから何度も同じような文章をくりかえす。あきもせずにやっていこうと思う。

自分の見ている世界は、自分の心の投影されたものなのに,なぜこうも自分を苦しめるのか。

これは心のフィルム上に苦しみ、怖れのシーンがしっかりと定着しているからだ。もちろんそれ以外に

も、わずかの楽しみや微かな勇気らしきもの、淡い希望の種もないことはない。

また、日常のありふれた淡々とした無味乾燥のシーンもあるようだ。だが毎日ではないが、

世に言う四苦八苦は圧倒的な現実としてわれわれに迫ってくる。回避し、時に追いかけ、

何とかしようと実りのない「努力」を続けてきて、我れの今日がある。しかもわれわれ自身、

この投影された仮相の世界に、懲りもせず、気づきもせず(あるいは、否定し)、あいも変わらず、

『確かな答え』つまりは「力」や「方法」や「技術」を見つけようと必死になるのはどこから来るのだろう

か。散々探し回りながら結局何も見つからなかった。当たり前のことだ、『答えの見つからない世界』

を創ったのもまた、自分だからだ。分かっているようで分かっていない己。

矛盾に翻弄され心で絶叫しながらも、おそらく気づくことを避けてきたはずだろうに。

これこそ『エゴ』のいたすところなのだが、『エゴ』の本質を知らなかった己にも責任はある。

『エゴ』は人に答えが分かられることを怖れる。たくみにそらそうとする。その技術は芸術的ともいえる

ほどだ。

我が人生を何十年もやってきてそれさえもわからなかったのか。

ほとんどの人が踏み外す理由があったのだ。真の意味での自立の未熟さと難しさだ。

五感、知覚、感覚などを通して記述される結果を客観的として権威付け絶え間なく刷り込み、

心が膨大な意識を瞬間向いたときに起きる出来事を偶然といい主観といい誤差といい徹底して否定

してきた人類の文化、制度、があった。

これに対する一個人の叫びはあたかも雷鳴下の荒野で虚しく響きがかき消されるようであったのだ。

近代の我らの歴史がそれを物語っている。



主観も客観もない、まして仮相世界の科学はとりあえず外しておこう。あなたの経験したことはあなた

にとって現実なのだ。検証する必要はない。あなたが膨大な意識のほうに向いている限りはね。

これを「あるがまま」という。

宇宙

 「宇宙」という言葉を辞書などで調べると、漢時代の淮南子によれば、

「宇」は三次元空間全体、「宙」は過去・現在・未来、つまり時間全体を意味し、「宇宙」で時空(時間

と空間)の全体を意味する。 つまり、宇宙とは「人」がその感覚で捉えうる空間と時間のことであり、

天空から地球までを含めて我が知覚の及ぶところまでの広がりとなる。

宇宙空間には無数の星、銀河,星雲、ホール,チリなどが散らばっており、均質ではない。

質量のあるところ必ず空間はゆがみ、時間の進行も同じではない。だから歪の無い状態を目指し、

均質へ向けて均衡を作り出すために膨大なエネルギーが各所で流れている。

この果てしない流れは、宇宙が完全に均衡になるまで続く。そしてその時、宇宙は無となる。

われわれ人間も、周りに比べ密度がほんの少し高いだけの存在に過ぎず、

歪の濃度が少し高いだけのありふれた点だ。

ところが、われわれは歪が消えその濃度が拡散してゆくことを極度に恐れる。

この恐怖はエゴのはじまりであろうか。しかしいつかは消えてしまうのだが。

存在自体がエゴなのか。それとも、エゴとは人のみに固有の幻影なのか。

多分両方だろうな。そして今わきあがる思考もエゴ。

今問われるのは、どうでも良いことを振り払い、捨ててゆくことこそ大切なのだ。

「捨てる」、は「潔い」につながる。

バランス

 8年以上も前のことであるが、ある雑誌にミステリーサークルの写真が載っていた。

ミステリーサークルとは、イギリスの、とくにアルトンバーンの広大な麦畑に出現するある種のメッセ

ージを伝えるような美しい幾何学模様のことである。そのなかでも特に美しいとされているのが、

「ギャラクシー」(銀河)と呼ばれているサークルである。

合計409個もの大小のサークルを持ち直径も235mもあるという。夜中の4時間ほどの間にこれほど

のものが人為的に製作可能か謎であるとして、当時おおいに話題になったものだ。斜め方向から撮っ

た航空写真が添付されていたのでそれを元に、平面図を作図してみた。コンパスと定規、円形定規、

曲線定規を駆使し結構時間がかかったが、一応似た形のものは出来た。6パターンの繰り返しなの

で思っていたほどの手間はなかった。

次に、詳細に写真と比べててみたところ、ミステリーサークルのほうに1,2箇所あきらかにミスしてい

るところが見つかった。小円の位置がずれていたり,無かったり・・・、である。ということは人為的に

作った結果のミスなのだろう、ふーむ、ミステリーではなく、人間のいたずらか、それにしても念の入っ

たことだ、宇宙人がミスするはずは無い・・・・。

その後、暴露本が出て、私が作ったという人物が名乗りを上げ始めたようだ。

しかし、すべてではないらしい。不思議な現象が観測されや、放射能も検知されているらしく、

まだ完全には決着が着いたわけではないそうだ。

実は、完璧なバランスが取れた状態からはエネルギーは生じない。捻れや歪みが元に戻ろうとする

ときにエネルギーが生じるのだ。ぜんまい時計を考えればよく分かる。あるいはダムの水の高低差が

電力を生み出すようなものだ。

わざとバランスを崩してあるということも考えられる、したがって謎のままである。

宇宙がダイナミックに活動しているのは均質ではないからだ。質量あるところ歪あり。

われらが身体も歪そのもの。

(作図を添付します。クリックすると小さくなります)

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 昨日、T町の町民文化祭を見学に行った。中核都市N市のベッドタウンだけあって

文化活動が盛んらしい。幼稚園児から老人施設の入所者、同好会、個人、などいろいろな年齢、

またジャンルも美術、工芸、工作物、など多彩で、幅広く、楽しく見学させてもらった。

その一角に、絵画や水墨画のコーナーがあった。

見事な作品ばかりだが特に説明はされていない。ほかの作品群と同じ表示で,作品のテーマと作者

名がピンで留めてあるだけだった。しばらく眺め、気になってもう一度眺めに戻った。

ほかのコーナーと何か違う。帰り際にその作品は,県展の入賞者のコーナーだと知らされて納得し

た。油絵においては、視点が斬新である、画面が広くタッチに迷いが少ない、そして何より、色使いが

いい、色が濁っていない、純色とまではいかないが澄んだ色,絵の具の質感をそのまま生かしている

ように見えた。画風が明るいのだ。水墨画はさらにタッチによる修正が利かないがゆえに技量が歴然

とするが見事な作品があった。ともに、細部にいたるまで手を抜くことなく丁寧な仕上げで、しかも全

体のバランスが良くとれている。なるほど、入選作品だけのことはある。

作者はプロではないが地道に技術を積み重ねてきた方たちなのだろう。作品は作者の心そのものを

画面に現している、さらに技術以上のものをどこかに感じる。

多分もっと重要なことは、見る側のわれわれの眼に曇りがないこと、つまりは、心が素直でなければ

見えないものがあるということだった。

心に感動するだけの余裕がなければ名作傑作を観ても多分感動はないだろう。

更にまた、園児や施設の方の素朴な絵や作品にも心和まされるのは己の中に同じ優しさがあった

のだと思う。美術の秋というが、作品を通してわが心の在り様を見るのもまた良い機会だ。

 さわやかで空は抜けるように青く、人々の心は優しい。木々の落ち葉は、やわらかな風に舞い、

秋刀魚の旨みは刷り込み済みの知覚になってしまっているようだ。

知覚とは心の態度、心の選択をそのまま体験しているといってよいと思う。

この季節の、この感覚も知覚の範疇に入るのだから、秋の情景も心の投影を見ていることになる。

季節とは外から見れば、つまりは知識とすれば、公転面に対する地軸の傾きから生まれるということ

なのだが、この見方もまたイリュージョンとなる。わが心の宇宙はどこまで広がるのだろうか。

でも、このあたりは思考の罠に入りそうで危険領域のなのだ。

生噛りのままで近づくことなかれ。

透徹した心の態度即ち、「まかせる」事ができなければ、あらたなエゴが増えるばかりだろう。

ひとびと

人の不幸、不運、病気、などはどこで決まるのか。

「注意深く自らの行ないを慎み、よく勉強し、周りへの配慮も怠らず、決して怒らず、腹立てず、いやな

感情が湧けばうまくなだめてきた、健康には十分注意し酒もタバコも決してやらず、人は品行方正と

ほめる。堅実に慎み深く、わが人生を送ってきた。」つもりのひとが、

次々と自分や家族の災難、不運、重い病気に悩まされている。

これらの不幸に対し、この人は原因を見つけ対処しようと必死になる。

先祖供養が足りないのだろうか、自宅の風水が悪いのだろうか、何かの怨念ではないだろうか、

悪因縁がついたのか、何か悪いことを間違ってしてしまったのではないだろうか、

延々と続く、反省ともつかぬぼやき、やがて悲しみ、尽きぬ心配事、苦悩、恨み、憎しみ、疑心暗鬼、

どうして私だけが?、どうしてうちだけが?、神も仏もありゃしない、・・・・。

「お墓も立派な吉相墓に立て替えた、有名な家相師に見てもらい改築もした、怨念怨霊も見てもら

い、相応に除霊浄霊は積んできた、さらには、神仏にも敬意を払い、息を吐くときにさえ隣の人に気を

使い、歩くときには足をしのばせ、声を上げることもなく、・・・・・・」

これに対し周りのヒトは、

「あん人は、何考えてるかさっぱり分からん、意見も言わんし、へらへらと薄笑いばかりして、

ぜんぜんはっきりしない、酒付き合いも悪いし、腹の底が分からん、

病院通いが忙しいのだろう、墓作ったり、家直しをしたり、金の有り余っとるのだろうか・・・・

やっぱり、息子が酒飲み運転して事故したのがこたえたか、かわいそうにのう」

外ばかり見れば、人は滑稽でもの悲しい。

不条理

 軸を外に置くと、世の中は不条理だらけ、何があっても不思議はない。世は常に危険に満ち、

弱肉強食の法がまかり通り、正直者は常に馬鹿を見る、ずる賢く立ち回り策を弄し、

陰でにんまりと笑っている奴ら。陰湿な暴力の嵐。官僚は汚職し、資本家は賄賂を贈り膨大な金を

かき集める、政治家は庶民を欺き、庶民は庶民でこそこそと不善をなすことは茶飯事・・・・・。

これでは疲れる。とはいいながら、やはり外に向く。わかっていてもどうしようもない現実、

この現実とは何だろう。見ているものはなんだろう。私は何を体験してるのか。

新聞やテレビばかりでなく身の回りに展開されるさまざまな事象はいったい何なんだろう。

私は、気づきのためにここにいるのではなかったか。

つまりは、自分自身に降りかかること、見ていることはすべて、

自分の心の選択なんだということを学んでいる途中なのだと。

だから、腹を立て怒り狂い感情をぶちまければ、そのエネルギーは相手に向かわず、自分に向かっ

てくる。奔流のように激しく襲う。「おや、私はそのような積もりはないのだが、どうしてなのか」と思い

至れば、ある日、己の心の在り様が、そのまま還流してきていることに気がつくだろう。

その場,その時、その状況の中にいたことは自らの選択の結果なのだと。見えるものは心の鏡。

「誤りはどこにあるのか」、に思い至れば、「まかせる」という言葉はここから有効となる。

膨大な意識が第一原因なのに、その前に自分の選択(エゴ)を第一としたこと。

選択は自由なので膨大な意識は一切干渉しない。

今、我々は「まかせかた」を学んでいるのだ。

ああ、今日も学びの一日であった。


怖れ

師匠の言葉

「怖れは、実は抑圧された勇気なのだ。だから破壊されたとき、思わぬ勇気が出る。」

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人は自分が「怖れること」を怖れているのかもしれない。

なぜならば、本当は見たくない「あまりにも現実的なエゴ」と対面しなければならないからだ。

己の醜さを見切り、かつ受け入れるにはそれなりの覚悟がいる。

「怖れ」そのものは身体的な危機以外は、大抵が意味のないことが多い、

にもかかわらず対面を避けて逃げる、これを小心という。

したがって

「怖れること」を怖れなくなったとき、つまり受け入れたときヒトは人に成る。

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プロフィール

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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