道元


「知るべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」

道元の言葉である。一切の無駄がない。

道を究めた方のすごい迫力が感じられる。

室町時代の言葉であるから分かりにくい。現代語訳はいろいろあるそうだが、あえてそのまま

味わうほうがいい。訳者の解釈が入るよりもそのまま何度も読み込めばよい。

私は勝手にこう解釈した。超意訳である。

「知るべきである、意識の実在を。響きを聞くことにより、それは解る」

専門家でないことは気が楽だ。



2週間

 新しい画像をいただいたり、新しい技法を習ったりした後はどうするか。

とりあえず、身につくまでにはすくなくとも2週間必要だそうである。

たとえば、画像と胸をつなぎ一つの感覚を得る、10分ほどかかったとしよう。

2週間つまり14×24時間×60分という総時間ではなく、一日10分ずつ、

2週間つまり14日間にわたり繰り返すと精度の高い感覚をえられるようになるという。

つまり13晩を送る必要があるということである。途中の睡眠時間が大切なのだ。

記憶などの作業は寝ているときに編集され整理され定着してゆくそうである。

ある人の誕生プレゼントに、ずっと以前にもらった「幸せにしかなれない」という画像を

はがきサイズにして贈った。たった一枚もらった画像を大切に毎日眺めているらしい。

先日メールがきて、「ふっと深い静けさと温かさの中に入るようになりました。不思議です、

生まれて始めての感覚です、これからどうしたらいいですか?」

「身近なところにおいて、毎日少しの時間でも良いから眺めると良いですよ」、と返事した。

この人には、これ以上何の説明もしてはいない。

彼女はきっと、いっそう幸せになるだろうな。これから多分何年も毎日見続けるだろうから。

我々は恵まれすぎて、初心を忘れてはいないか。



会話

 「言った」、「言わない」、「いや言った」、「いや聞いていない」   

「ちゃんと伝えたはずだ」、「そのとおりしたのよ」 

「いった通りしてないじゃないか」、「言い方がいけないのよ」

話は思ったように通じない。当たり前のことだ。お互いさまなのだ。

もともとアバウトであやうげな言葉そのものを拠り所とすること自体あますぎるのだ。

お互いに、基準が違う。見ている現実が違う。言葉の概念が違う。つまりは物語が違う。

それがほぼ分かっていながら言葉のやり取りに終始し、お互いに勝手な幻想をいだく。

「伝わっているはずだ」と思い込もうと、実は完全に伝わることなどないのである。

必ず、どこかで齟齬をきたしている。

実は、会話と言葉以前に、まず心があって発すべき概念を選択し確認している。

その確認作業の結果ががきちんと伝えられるかどうかなのである。

伝えるべき概念の基準が違うのに、一致することはないのである。

ただ、「違って当たり前」、これを肝に銘じておけば、人生少しは「諦めもつく」というものだ。

また、色、におい、感触、気分、空気などが言葉に置き換えられるだろうか、

しかも心そのものが揺れ動いているとなれば、どこにも確かさはないのだ。

言葉とはほんのわずかの心の一部を物理現象にのせて送り出した不完全な信号に過ぎないことを知

っておこう。どうしても完全を求めるのなら「独り言」しかないのだ。これさえも本当は分からない。

では、人は完全なコミュニケーションは可能なのか。無理だね。

今大切なことは、「人それぞれ違うのだ」、ということを認めるだけなのだ。

ということは、善悪、正誤もない、求めない、ということなのである。

穏やかで静かな日々を送りたければ、他を責めないことである。

どちみち不完全な自分を見ているのだから。

選択

久しぶりに旧知のMさんにあった。年齢は70歳に満たない、まだまだ若いはずだが、生気がない。

学生時代からヨットに乗り始め今でもクルージングを楽しんでいるスポーツマンだと思っていた。

もともと彼は酒もタバコもやらない。食事も奥さんが慎重に管理し玄米中心の偏らないメニュー

だそうである。その彼が、ここ数年の間に、次々と病にかかっているという。

胃のポリープ、膀胱がん、大腸ポリープ、軽い脳出血、右手まひ、股関節異常、・・・・・。

話を聞くと、病気に関するすごい知識がある、病院情報にも詳しい、知り合いに名医も多い。

健康管理に十分に気を配り、健康情報も豊富、適度の運動もやってきた、どうしてこうなったのか。

普通の人ならば、『不運ね、お気の毒に、・・・・・・・、体質なのよ、・・・・・・・・・』といって

すませてしまうだろう。

我々には実によくわかる例である。健康を失うことへの極度の恐れ、必要以上の知識は恐怖への

裏返しに過ぎない、「健康のためなら死んでもいい」というタイプの人なのだ。

人がこういう形で悩み苦しんでいるのだけれど、心が病気を忌み嫌い、恐れ、力で圧倒してでも

排除するという姿勢を選択している限り、どうにもならない。本来、豪快な人で、幅広く建設業を

やりながらこの世界を生きてきた人で不都合なことでも受け入れる柔軟さがある。

この人にして、こうなのだ。人それぞれなのだが、気づきはいつ訪れるのだろうか。

わたしは「心の選択の問題だけですね、結局は・・・」とだけは伝えた。

軽く雑談を交わし、保健水をペットボトルに入れて持ち帰ってもらった。

機会があればまた会うだろう。


変化の拒否

人はなぜ、変化することを恐れるのだろうか。

どうして慣れ親しんだスタイルにこだわるのだろうか。

様々な場面がある。同じような装い、いつもと変わらぬ喫茶店、同じような受け答え、

似たようなお付き合いの相手、同じパターンを繰り返す結婚生活と破綻、失敗も成功も

いつも同じようなパターンを繰り返す。人間は不思議な生き物で、同じようなパターンで失敗しようもの

なら、「やっぱりね、同じだわ、本当に私っていつもこうなんだから・・」

といって妙に安心するし、まちがって成功でもしたら「わっ・・・・」とうろたえる。

慣れ親しんだものならば、失敗も成功もどうでもよいのだ、ただ慣れ親しんだそのことで十分なのであ

る、というような傾向は誰にも見られる。

まして、人生を刷新させるように(自らの奥深きところから)呼び寄せた新たなレシピさえも拒否し回避

してしまう矛盾を犯す。そしてその認識さえほとんどないようだ。

全ては変化する、同じもの、同じ現象、同じ心は2つとないことを知っていても、

心は受け入れることをしない。慣れ親しんだものへの強い執着、我執という勢力があるのだ。

頭で決心して改善されるほどのやわな相手ではないことはもう一人の己がよく知っている。

言い換えれば刷り込み思い込みの粘性はそれほどに高いし、手ごわい。

これが繰り返されれば変化を避けるようになる。保守こそが命となってしまう。

我々のトレーニングはここを見切ることから始まる。容易でないことは身をもって知っている。

よみがえり水

昨日から今日にかけて、よみがえり水の報告が届いた。

Aさんは、昨日、魚をさばく途中でひれが指に刺さりしばらくしてから指が2倍ほどの太さに腫れ

上がり、痛くて眠れないほどの状態になったそうだ。思いついて、よみがえり水を入れたコップに

腫れた指を入れてしばらくつけて置いたという。

この人は抗生物質が身体に合わず,副作用 でひどい症状がでるために病院には行かず結局

よみがえり水で処置して、今日は腫れもかなり引いて楽になったそうである。

Bさんは虫刺されに今まではタイガーバームを使っていたそうである。

痒みが引くまで10分ほどがかかっていたのに、よみがえり水を塗ったら1分ほどで痒みが消えた

そうである。蚊からさされたらすかさず、よみがえり水、に決めたという。

今までは飲んだり、料理に使っていたそうであるが新しい使い方が出来たといって喜んでいた。

連休に出かけた方も多いだろう。高速道路料金は安くなっても燃料代は変わらない。

私は、年に1回ほど燃料タンクに200mlほどのよみがえり水を入れる。

専門家に聞くと10リットルほどの水を入れても支障はないらしい。

タンクの底よりかなり上に燃料パイプの先端があり、水がエンジンに行かないようになっている

とのことだ。数滴ほどなら何の問題もない。

もともと水がたまることを前提に設計してあるから大丈夫なのだ。燃費が結構よくなり

エンジンの調子もすこぶるよい。わずかだが、よみがえり水が燃料に混じりエンジンに届き

よい結果を出すのだと思う。

こういう実験は、やってみてわかること。怖いと思えばしないことだ。

何故、と考えても仕方がない。事実を受け入れるだけのことである。

わざわざタンクに水を入れなくてもかまわないし、指が腫れれば他の薬を付ければよい、

色んな方法があるだろう。痒ければヒスタミン剤を塗ればいい。選択はまったく自由なのだ。

われわれは人生を「思いがけない形」で「楽しんでいる」のである。

思い込み、刷り込みから、ちょっとだけ「さようなら」。




保健水

 保健水のための画像をいただいてから、来院する方の一部や家族などにモニターとして

毎日適量を飲んでもらっている。少しずつ具体的な報告が集まってきた。

女性からの報告が多い。

*飲み始めて2ヶ月程してから気がつきましたが、顔のシミがほとんど消えています。50代女

*1月ほどになります。皮膚が若いころのようにシットリとなりました。

 化粧はほとんどしませんがびっくりです。60代女

*何かよくわかりませんが以前に比べ体調がとてもいいです。50代女

*下肢が麻痺して歩けなくなって2ヶ月ですが、手すりにつかまりながらもともかく両足で、

  しばらくたてるようになりました。シールなどと併用しています。30代男

*お通じがよくなりました。70代女

*日ごろの健康維持の為に毎日飲んでいます。とても安心です。20代女

*疲れて帰ってくる主人にも飲ませています。疲れが取れるようです。40代女

*悩み事が減ってきました。60代男

*高血圧が改善されています。2ヶ月で上下とも10以上下がりました。60代女

*80歳の母が、保健水を楽しみにして飲んでいます。驚くほど元気になりました。50代女

今後、徐々により具体的なデータが集まると思う。

使い方についても、他のシールとの併用、スプレー、飲用、など工夫してゆきたい。

私のように原則として器具、手技を使わない療術では今後さまざまな可能性を感じている。



彼岸花

 昨日から今朝にかけて、少しだけだが雨が降った。一月近く雨がなく乾燥しきっていたので

緑がとても元気ついて見える。道路沿いに、堤防沿いに、田や畑や空き地の縁に、いっせいに

「彼岸花」の花が開いた。実りはじめた稲穂の黄緑を背景に真っ赤な花の群れが鮮やかに、

燃えるように映える。花咲く準備はしっかりとなされており時が来るのを待っていたのだろう。

周りの雑草に紛れ込んで気がつかなかっただけに過ぎない。ジッと潜んでいたものが「時は今」

と叫んで立ち上がった。それにしても花のなんとも繊細で華やかなことか。マンジュシャゲともいう。

蔓珠沙華と書く。ほんらいは天上に咲くという架空の花の名前で仏教用語だそうである。

アゲハチョウや黄色の蝶が舞っている。赤とんぼが群れを成してとび、そばを一群が通り過ぎてゆく。

今年は天候が、奇妙に不規則だったのか昆虫にも変化が多い。オニヤンマやシオカラトンボ、

ムギワラトンボなどを久しぶりに見た。庭の虫も2週間前のマツムシの音の騒音が懐かしい、

窓を開けておればあまりのdBの高さでTVの音が聞こえなかった。今は、鈴虫がやわらかい音色で

秋を教えてくれている。

多分去年は彼岸花や虫たちのことを身を入れてみてはいないようだ。

網膜には映ったはずだが、見過ごすということをやっている。見えていなかったということになる。

一体何を考えて過ごしていたのか。

今年は見慣れた光景の中に新しい発見があることを幸いに思う。

膨大な意識が今している意識を意識する。

我がセラピールーム

我々には、社会に強く働きかけて世の中を変えてゆく、などの意志はない。

一人一人が心の方向を膨大な意識に向けられるようにコツコツと地道な練習の積み重ねを

するだけである。実はそれだけで結果的には世の中に穏やかな静かな愛おしさにつながるような

フィールドを広げていけると思う。

もっと簡単には、自分ががそばにいるだけで周りの人の心に、穏やかさ、愛おしさ、静けさ、

などが湧くような状況が生まれればいいな、と思う。周りは己の心の鏡だからだ。

学びたい方があれば、静かに自らの経験を語ればよい、十分に咀嚼したお話を伝えればよい。

しかし、もうすでに準備できた方も来るだろう、その予感は強い。

かえって教えられるようなシチュエイションもあろう。大歓迎である。

画像や、よみがえり水、保健水、などを準備したこじんまりした空間に、フット立ち寄られる方々が

来られるのを静かに待ちたい。

饒舌に話を語る場ではない、沸騰するような討論の場ではない、心を開き、胸をつなぎ

穏やかな、安らぎの空間としたい。

軽やかな身体と心になってお帰りいただきたい。





重力

 テーブルの足について考える。1本、2本では足を埋め固定しなければ安定感は得られない。

3本では天板を支えは出来るがやや不安定である。さらにテーブルの有効面積は4本の場合

に比べ2分の一になり効率が良くない。テーブルの足は4本がちょうどいい。5本、6本では

それぞれの足の長さの違いや、床面の凹凸の関係でかえって不安定となる事もある。

なぜ4本がよいのか。簡単に言えば重力の働きによりそうなっているのである。さらに

精密に言えば4本の足は平行ではない、それぞれ地芯めがけて一直線なのである。わずかに

下部は内側に寄っているのが本当だ。天板も本当は3次曲面が正解なのだ。

だから、足が平行で天板が水平で許されるような強さの重力圏に我々は生きている。

鉛直や水平に慣れ親しんでいるのは重力の関係である。そこから生まれる直角は

全てのデザインのベースとなっている。我々が90度と89度を感覚的に見分けられるのは実は

この刷り込みに拠るのだ。重力は刷り込みである。といってこれから自由になれるわけではないが。

師匠から、恐怖の根幹は2つある、と教えていただいた。一つは落下するという恐怖、これは完全に

重力によるものだ。もう一つは音。風船は割れると分かっていても割れる音を想像するだけで

怖い。ところで、音についてだが、音は空気の密度の変化によって生じる、ここで言う密度とは

空気を構成する気体の分子の密集度だが、これも重力の働きからきているのだ。

だから、恐怖の根幹になる原因は重力なのだ。

しかし、我々の肉体も究極には重力の産物だから、恐怖と共にあるということになる。

肉体由来の感情や思考は重力圏にあって生きている限りこれらから自由になれはしない。

つまり消せないのである。

だから、抑制しか方法はない。つまり、意識に上がってこないようにするだけしか出来ないのだ。

だが、こういうこともいえる、肉体があればこそ分離感が生じるのだが、分離感なくしては

愛、つまりは利他も学べないということだ。


まだ我々は相対的な世界観から当分の間、抜け出すことは出来ない。

日に4秒間だけでも忘れられたらいいな、と思う。

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プロフィール

ロックエヴァ

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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