手あての実験

人の先入観を打ち破るのはなかなか難しい。言葉では無理だ。

実践的なやり方がよい。して見せて気づかせる。

「手当て」に効果があることを気づいてもらう方法を述べよう。

まず「受け手」に立ってもらいゆっくりと足踏みをしてもらう。5,6回でいい。

次に「受け手」を椅子に座らせる。普通の椅子でいい。足がぶらつかないようにする。

あなたは床に座る、正座でも胡坐でも中腰でもかまわない。

次に「受け手」の片足をあなたの両手ではさむ。挟むときには一方の手を「ふくらはぎ」側とし

もう片方を「すね」側とする。手は足に触れないほうがよい。皮膚から5~15cmほど離そう。

時間は30秒ほどでよい。もちろん1分でもかまわない。

終わったら「受け手」に立ち上がってもらい5,6回足踏みをしてもらう。

そして、こう聞いて見よう。「左右の足の重さの違いが分かりますか」。

ほとんどの人が違いに気づく。

感嘆詞が出ることも多い。まれに気づかない人もいるので何人か試してみよう。

軽くしたら、もう片方の足も軽くしよう。

これは、誰にもできる。なお師匠から習った爪弾きをしてからするとさらに効果的だ。

この後は多分、肩こりの話が来るだろう。やってあげればいい。

なお、手に力を入れないこと、軽くしなければならない義務は一切ないということ、

気のせいではないこと、超能力などではないこと、・・・・・。

多分、あなたの足も軽くなってるだろう。

気づきはそこからだ。




人の人生

ホワイトボードでもよいし大きめの画用紙でもいい、マーカーや鉛筆なども準備する。

左から右に向かってスーット線を引く。線の始まり付近に点を打つ。

そこが原点となる。その点を基準として右に向かって等間隔に点を打って行く。

たとえば間隔を10cmなどとする。

原点を入れて点を6個打てば間隔が5つできる。一間隔を10年とすれば50年分の座標が出来る。

間隔を細かくしてもよいがアバウトだからこれでかまわない。

さて、たとえば右手の人差し指を原点のすぐ下におき、右方向に座標軸に沿ってゆっくりと

等速で動かす。

動かす速さは秒速5cm位がいいだろう。ゆっくりすると思考が入る、速くすると精度が落ちる。

指が移動するにつれて、あなたの手や胸や額などに感覚的な変化が現れる。

ジンとした感じや、圧迫感、温感、など様々な感覚が次々と現れては変化してゆく。

特に感覚が顕著な時には、座標軸に印をつける。

印をつけたところが、その人の人生におけるトピックスとなる。

たとえば20歳半ば付近で、ということは第3番目の点と4番目の点の真ん中付近で

ジンとした反応があったとする。その人が仕事を変わったかもしれないし、

結婚したのかもしれない。さらに指を滑らせる。33才付近で強い温感が感じられたとする。

そのころ、この人に子供が生まれたのかもしれない。

慣れて来ればさらに具体的なことも感じられるようになる。

逆に例えば腰が痛い方が相談に来たとする。今46歳としよう。

46歳のところから左に向かってに向かって逆送する、手に感じていたジーンとした反応が

40歳付近で軽くなったとする。こういうときは聞いてみることだ。

「40歳ころから始まった痛みですね」「6年間もつらかったですね」。信頼感はいやがうえにも増す。

人ばかりではない。会社や団体、国家などの状況がアバウトながら『手に取るように』わかる。

明治維新という歴史の転換期がある。いつころから準備が始まったのかを調べてみた。

18世紀半ばと出た。さかのぼること100年ほど前だ。人々の心に改革の兆しが始まっても

現象として実現するにはそれほどの時間を要するらしい。

上記の方法は誰にでもできる。私は治療経過や過去の病歴の確認に時々使う。

かなりの確率で当たる。占いではない。技法である。

過去は過ぎ去って「今には」ない。しかし時間軸を意識すれば確かに「ある」。











お金

お金を大切にする人のところにはお金が集まってくるのだそうである。

確かに人によってお金に対する態度が違うし、なかなか変わらないようだ。

Aさんはいつもしわくちゃの紙幣を無造作にポケットから出して支払ってゆく。

全体的になんとなくしまりがなくお金さんが逃げ出したくなるような雰囲気だ。

それでいて、宝くじは毎回買ってるとのことだ。会報などを郵送しても返事は来たことがない。

予約時刻にはよく遅刻する。

好人物だがどこか横着で大切なことはこの人には頼めない、そういう人だ。

 一方Bさんは支払うときにお札は上下、裏表がきちんとそろっている。

古い紙幣でも端っこが折れたりしていることはない。ピシッとした感じだ。

会報などへのお礼は必ず達筆なはがきで来る。

雑談の中でお金のあつかいの話になった。ずっと昔Bさんのお父さんは銀行家だったそうである。

プライベートなお金についてはその日に入ったお金は必ず皺を伸ばし汚れがあればふき取り

最後にはアイロンをかけて三方にのせて神棚の前で拝んだそうである。それを見てBさんは育った。

お金ならずとも、そういうBさんのところには富が集まりそうな感じがする。安定感がある。

Bさんは決して吝嗇な人ではないし、けじめがはっきりした方だ。

ここで二人の善悪を問うわけではないが、

人格もエゴの範疇にいるとはいえ、豊かさに関連する事には間違いなさそうだ。


3,4年前のまいど会のあとの飲み会の席で、師匠から習ったことがある。

「紙幣はきちんと皺を伸ばし一枚一枚ラッピングして一晩冷凍庫に入れるとよい・・・・。」

実は今日、家内が冷蔵庫を整理していて冷凍庫の下からずっと以前に入れて

忘れたままにしていた一枚が見つかった。さあてどうするかだ。

案内として

うちにこられる方への案内文の一部です。

まいど会で習った方向をできるだけ明確にしながらも、一般的な言葉で伝えたつもりです。

といいながら、こられる方はまだまだ分かりつらいようですが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは心が健康であれば体はもとより人間関係、経済状態も良好であるとしています。

何より優先されるのは心の健康です。心の状態が目の前に様々な形をとって現れたのが

今見ている自分の姿であり、自分の周りの状況ですから、不都合なことがあまりにも多ければ

心を見直さなければなりません。自己観察の大切さはここにあります。

とは言いながら結構難しいのです。呼吸法の先に少し見え始めてきますし、

シールや画像でフット気がつくこともあります。実は様々な技法もあります。

心(の選択)は感情に直結しています。感情は体に直接影響します。

感謝の心が体を健康にすることは昔からよく言われてきました。

逆にネガティブ(暗い)な感情が体に及ぼす影響もまたよく知られています。

「病は気から」といいますね。

悲しみは、肺、子宮、心臓、小腸、松果体、腎臓、左肩、などに

怒りは、胃、脾臓、婦人科全部、心臓、胆嚢、特に肝臓、腸全体、泌尿器、胸腺、腎臓背中、

腰などに「痛みや重み」などの形で表れます。痛み重みはいわば「警告」です。

もう少し心を穏やかにしてくださいね、という「シグナル」なのです。

ほおっておけば「病気」になってしまいます。そしてさらに苦痛が定着します。

人間はいったんそのサイクルに入ってしまえばなかなか抜け出せなくなります。

薬が効くのもまだ回復の余地が残されているときだけなのです。

つまりは自然治癒力が支えてくれるわけです。薬はきっかけです。

薬で回復されるのは30%程度だそうです。一般的には、次はより強い薬、手術、放射線、

などでの対応となります。

自然治癒力で回復する余地があるレベルでの気つきがあれば幸いですね。

当研究所では、画像やシール、各種技法を組み合わせて、皆さんの心の健康を

エネルギー的な見地からサポートしています。

「心が健康」とは、「心」が「膨大な意識」のほうに向いていることを示しています。

いつも静かで穏やか、調和が取れており、誰にも心を開くことができる、たとえ自分にとって

不都合なことでも受け入れる度量の深さ、逃げない、避けない、真正面から受け止められる強靭さ、

そして生かされているという感謝の気持ち、などがあります。

「心が不健康」とは「心が暗い状況」をさします。喪失感、恐怖感、が根底にあってそれから

逃れよう避けようとするほど泥沼に陥るような状態です。

不都合から逃れよう、避けようとする姿勢が顕著ですから何事も人のせいにしがちです。

反省傾向がつよく失敗を極端に恐れます。ですから失敗から学ぶことは少ないのです、

したがって同じ過ちを何度も繰り返すことが多いです。慢性病などもこの範疇でしょう。

気づきが少ないがゆえに根底からの改善がみられないのです。

私たちが肉体を持ってこの世界に存在していることは大きな意味があります。

肉体の経験を通してしか学べないものを教材として、

大いなる実在(膨大な意識)に気づくということです。

    

自己観察

自己観察と聞いてその意味を分かる人はほとんどいない。

多分100人中2,3人くらいのものだろう。

その中でも、自己反省と思う人がほとんどではなかろうか。

自己反省とは、過去の自分を、ある視点(たとえば損得)から見ることであり

過ぎ去ってしまった、今はもう存在しないことを追いかけることに他ならず これはすぐにでも

エゴの餌食となるだろう。言い訳、悔やみ、罪悪感、羞恥心、怒り、劣等感、などが並行して

羅列される。反省はエゴの数だけ行われ最後にはその人の前向きな原動力とはなりえずに

かえって人に責任を押しつけることになりかねない。誰だって自分が正しいと思いたいのだ。

本当の意味での自立から遠ざかるばかりである。反省は少しだけでよい。

したがって反省は自己観察ではない。

大切なことは、自己逃避の口実を許さない厳しい自己観察でなければならない。

なぜならば、人生の目的である、「自分の根本からの変革を望んで生まれた」からには

これしかないからである。

自分を観ることはかなり辛いものだ。目を背けたくなることがいくらでも次々に現れてくる。

恥ずかしくても、おぞましくても、布団にもぐりこんで目を閉じたくても、いますぐ忘れたくても、

避けないほうがよい。いつかは清算しなければならないことならば、逃げてはいけないのだ。

「誰も代わってくれない」、と突き放すもう一つの自分に感謝しよう。

師匠は「ミをもって行う」といわれている。

「自分自身で証明し、自分自身で体験して、自分自身で実験する」

自己観察とは、エゴのアルゴリズムを観察しエゴを無力化してゆこうとするものである。

     言うは易く行なうは難し、・・・・エゴが隙を狙っているぞ。

自己観察の機会は今だ。観察して「いま」が自覚できたらこれはいい。







人とは何だろう。

様々な切り口で記述することが出来るだろうが、一般的に体と心を併せ持つ存在だとしよう。

体については物質なるが故に、いわゆる科学的な統一見解、統一理念があると観てよいだろう。

医学的な見方、生化学的な見方、運動科学的な見方、物理的な見方、などさまざまにある。

骨格は同じ様な構成だし、臓器の位置は皆ほぼ同じ、酒を飲めば酔う、つねれば痛い、

最高速度はせいぜい秒速10m程度、首は真後ろまで回らない、などなど。

だから医学や身体科学、生化学などについてはほぼ統一した認識がある。

さてもう一つの「こころ」とは何だろう。

心理学、精神科学、倫理、哲学、宗教学、などいろいろな分野で研究がなされているが

いまだ、万人共通の認識はないようだ。普遍性、客観性がいまだないといえる。

広辞苑で、心、精神、意識、心理などの項目を引いて何度読んでもなんとも釈然としない。

心を「人の内面心理」とすれば、おそらくその多様性の故に「実在はない」、としか言いようがない。

人の心に多様性がなければ他人の思いは法則性に基つきすぐに分かることになる。

たとえば恋愛などは思い込みだから、互いの勘違いだから、ありえないものとなるだろう。おお!

(多様性あるが故に芸術が花開き、宗教が生まれ、文化となり、文明が興隆してきたのだ。)

多様性とは抽象的にまとめうる概念さえも希薄に等しいということだ。

だから心理学は厳密には科学とは言いがたい。科学とは共通認識だからだ。

(ただし、共通認識だからといって真理とは限らない。さらに真理さえ実はあいまいなものだ。)


我々は「意識」と「エゴ」の選択のデバイスを「心」としてとらえている。

師匠から「エゴ」について説明を受けたときの衝撃はいまだ忘れがたい。

エゴとは何かはおいおい述べていくことにするが、リアルな実在である。概念ではない。粒子だ。

さて心理の無数の多様性は実はエゴの総体でありエゴには特質はあっても法則はないがゆえに

人は「思いもかけないような」ことをしでかす。もちろん本人さえもよくわかってはいないのだ。

ならば、人の世に生まれ右往左往するのが人生なのか。違う。

エゴの特質を知り、「意識のみが実在」を知ればよい。生まれた意味が分かる。

突破口は、自己観察から始まる。







価値

ずいぶん昔の事になるが、なくなった叔父の形見ということで時計をもらった。

精工舎製の『普通の』腕時計だった。サッカーするときも、山登りにも、たまには水遊びの

時にも常に傍にあった。要するに気軽にやや粗雑に日常雑貨として扱ってきたのだ。

あるとき時刻合わせをしようとして竜頭を強く引っ張ったら、すぽっと抜けてしまった。

しょうがない、付き合ってくれてありがとう、で机の奥深くにしまいこんでしまって長い間

忘れてしまっていた。

そして去年、雑誌でグランドセイコーなる時計の存在を知った。

一般の量産型と完全に違い、精工舎の職人が丹精込めて作った日本が世界に誇る

高級腕時計だった。日本の優れた時計技術を後世に残すための業物であった。

何と、私がもらったのはその初期のころの作品の一つであったのだ。値段は当時43万円。

ローレックスと並ぶようなものだったのだ。

インターネットでセイコー本社や何箇所かの修理店に修理を発注したがすべて部品なしで

断られてしまった。実は抜けた竜頭をおそらく捨ててしまっていたのである。

いまだ、時計は引き出しの中にある。今更悔やんでも仕方がないのだ。

モノの価値を知らないが故の愚かな過ちであった。

知っておればもっと大切に丁寧に扱ったはずだ。(エゴそのもののいやな言葉だ)

もらうとき、いとこが「いい時計だよ」とだけ言ったことは覚えているが。


師匠から画像や技法、など、たくさんのものをいただいている。

師匠は説明などをほとんどされない。自分で使って自分の感性で気づかねばならない。

計り知れないものであることは分かっているが、その可能性ににはまだまだ気づいていない。

エゴの抑制が未熟だからだ。頭の判断が先行するからだ。申し訳ないと思う。

地球はやがて未曾有の混迷の時代を迎えるらしい。

そのとき我々がその存在価値を問われるだろう。

他の為に何が出来るか。

師匠からいただいた、朝,起き掛けの言葉

「今日もまた この身 この魂をお貸しいただきありがとうございます。

願わくばどうぞ神様の御用にお使いください。 カムナガラタマチハエマセ」

目覚めて10秒以内くらいのまだエゴが動かない混沌とした状態の中で唱えるのがベスト。

うまくいけば、この言葉が半日ほど頭の中で反響してくれる。

全託こそ目指すところである。

といって、目指そうとすれば遠ざかる。忘れたときには傍にあるが気がつかない。

近くにあるのに遠いと感じるのは思考なのだ。

思考は頭で、だから、意識を頭より下部に置く練習をする。

不思議なことに思考から離れれば心は自動的にもう一つの方に向かう。

まれに、視野の右側に透明な美しいブルーの光を見ることがある。


エラー

高校野球はいつも、色んなテーマを提供してくれる。

初戦以来、ほとんどエラーもなく順当に勝ち進んできたチームがあった。

ところがある時を境にして突然信じられないようなエラーが続出し自滅してしまう。

評論家からは、実力は上、投手も、守備力も、おそらく練習量も勝っているといわれているのに

どうしてこういうことが起きるのか。

見ていて、気の毒になる、誰かの悪戯としか言いようがない。積み重ねてきた全ての努力が

泡のように消えてゆく。

人々は運がなかったという、踏ん張りに弱かったという、投手が体調不良だったと明かす、

雨が降って試合日が延期になりリズムが崩れたとも言う。

そうかもしれないが、そういう状況を引き寄せてしまったのは何か、と我々のグループは

考える。

おそらく、中心になる人物の心にふっと『恐れ』が芽生えたのだ。

彼は緒戦を通してそれがいかに危険かよく知っている。

否定しようとした、押さえ込もうとした、忘れようと必死に努力した、

不動心が大事と言い聞かせた、大丈夫、大丈夫となんども心の中で叫んだが・・・・。

しかし、一度傾いた心のスイッチは切り換えるのが極めて困難である。

あっというまに、この波動は周りをのみこむ。縁深き人を次々と巻き込む。

スタンドの皆も必死になる。勝てと願う。エラーするなと念じる。事態は決して好転しない。

自滅の瞬間がせまってくる・・・・・・・・・。

エゴのアルゴリズムはたくみに深みにはまって行くのをじっとながめている。

幸い、われわれは日々基礎トレーニングを通して、こういう状況から速やかに立ち直る練習を

させてもらっている。

呼吸法をする、チューニングする、真我に意識を置く、シールを貼る、水を飲む、

黄色い風船を飛ばす、まだまだある。

根幹は「まかせる」。

バランス

野球を見ていてよく思うことがある。野球は完成されたスポーツだということである。

球場、球、選手、ルールなどの構成要素が絶妙なバランスで組み立てられている。

しかも選手の能力を完全に引き出しながらも意表をつくドラマが毎回演じられている。

ベース間の距離はミリ単位の精度で規定されている。

球の重さ、直径も規定の範囲が決められている。反発係数も規定されている。

仮に、ベース間距離を1m長くするとどうなるか。1mは走者にとっては百分の一秒ほど長くなる。

送球者にとっては百分の4秒くらい長くなるが、走者より有利になるだろう。

球を半分の重さにしたらどうなるか。変化球が投げにくいだろうし、当たっても飛びにくいだろう。

物理的な要素を少しいじっただけでも面白さが多分損なわれる方向に行くと思う。

米国で創始されて約150年、この間絶え間ない改善改良の中で洗練されたスポーツに

成長してきたのだ。面白いからこそ、選手が生まれ、プロが育ち、ファンクラブができる。

野球関連ビジネスが様々な雇用を生み社会現象さえ創造してきた。

さらに後継者育成のために日本では高校野球があるし少年野球も充実している。

たくさんの要素が有機的に絡み合った巨大なシステムを作り上げている。

野球は人間が作ったものだが現代ではもう一つの生き物のような精妙な存在になってしまった。

人の意識が創り上げた壮大な舞台装置だ。




その人を、

宇宙を、地球を、そこに生きる生物、無生物、無数の存在を、それら一つ一つを膨大な意識は

ずっと意識している。

造物主が確かにある。

人の知覚では決して及びもつかない深さだ。広さだ。









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プロフィール

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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