複製

元イラストレーターで今は画家の横尾忠則さんが、エッセイ集「人工庭園」の中で面白いことを

言っておられる。

個展に出品予定の作品が所在不明とわかり、複製を制作することになった。36年前の

作品で写真だけは残っているのでそれを基にそっくりさんを作ろうというわけである。

以下・・・・・・で挟まれた部分は横尾さんの文章の一節である、適当に抜粋してごめんなさい。

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「いざ描き始めるとこれがなかなか難しい、絵は自由自在に描けばいいものが贋作はそんなわけには
いかない。本物そっくりに描かなければならないのに,思わず創作してしまいそうになる」

「オリジナルを描いた人間がどうしてピタッと同じ絵が描けないのだろう・・・」

「だけど面白いことに気づいた。どうしてもソックリさんが作りたければ『我』という意識を持ってはいけないということだ。つまり『我』の放棄が必要なのである。芸術の難しいところはこの『我』という問題である。・・・・・・・・強烈な個性は『我』の貫徹が決め手になる。ところが果たしてそうなんだろうか。
『我』の貫徹が西洋のやり方だとすると、東洋のやり方はむしろ『我』の放棄ではないか。複製を描きながら、僕はそんなことを感じるのだった。・・・・・・・・」

「元の作品に比べれば複製画は自由ではないが、ありのままに従うという複製の行為はどことなく『我』と切り離されていて、まるで大空をゆっくり飛んでいる鳥のような爽快さがあるのだ。苦心惨憺して傑作を物にしようと意識するよりも、『我』から離れて対象に没入する気分は、本能が求める本来の楽しみのような気がしないでもないのであった。」

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人間の体の細胞はおよそ8年で完全に入れ替わるそうである。36年たてば4回は入れ替わってるわ
けで完全に別人といってよいだろう。36年前の自分の作品を別人となった私が複製する、彼自身そう思っている。だから『我』をすててやらなければうまくいかないと。自分の作品にしてからがそうなのだ。
彼が複製を『贋作』というのも無理からぬ気持ちであろう。『我』(エゴ)を捨てれば変わらぬものが描けるのではないか、といっておられる。複製制作を通して、任せる、ことを知っておられるようだ。

エゴは経年変化するのだ。だから人は変化する。世間知に長けた人になるか、命輝く人となるか。

動く

考えてばかりいると、たいていが堂々巡りとなっていて新しい展開にはならないことが多い。

心が停滞状態に陥ると「負の連鎖」が始まって息苦しくなる。

妄想、迷走、暴走が起きかねない。疑心暗鬼、被害者意識、がもっこりと首を出し始める。

気づいているうちは良いが、たいてい我を忘れ視野がせまくなり曇り始める。

スピードは上がったがフロントグラスは曇った状態の車を運転しているようなものだ。

書を捨てて外へ出よう。

明るい光を浴びよう。遠くの音を聞こう。微かなにおいをたどってみよう。流れる風を感じよう。

やがて、心に活き活きとした躍動感が戻ってくる。

体は動かすことに意義がある。

最近、うつ症状の方が多い。

話しているうちにそのように感じる。

まずは黙って鬱対策シールをさし上げる。「しばらく毎日一枚貼ってみましょう。」

軽い方は、必ず体が先ず動き出す。

散歩、草刈、買い物、お風呂、髭をそる、電話する、などがはじまる。

書から遠ざかるほうがよい。TVを見ないほうがよい。ネットも不要だ。

終戦直後の国民の生活が一番苦しかったとき、うつ病患者が最も少なかったという。



同じものは2つとない。

森羅万象、どこをとっても同じものは決してない。

人についても、皆一人一人ちがう。まったく同一の人が二人いるということはない。

細かく見ても、分子や原子、さらには素粒子もまったく同じもの、同じ状態はありえない。

一見不思議な思いがするが、

膨大な意識が同時に全てを意識している証である。

以前、何度も教えていただいたことだが

最近特にリアリティーをともなって迫ってくる。

「私は膨大な意識によって生かされている」


エゴのランク

エゴにランクがあるのだろうか。

師匠は今までほとんど触れられていない。ただ、真我は『もっとも素直なエゴ』とだけは聞いている。

元来、ランク付けは、比較だし、区別だし、差別だから、まさに別のエゴがそこに待ち構えている、

のが見える。

だから、おそらくシャカはたとえ待機説法であろうと決してランクつけなどはされてないだろう。

エゴはエゴでしかないからだ。


しかし天台系仏教には、『十界論』があって、

人の心の境地を 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声門、縁覚、菩薩、仏と分類している。

菩薩以下がエゴのランクとみてよいだろう。

たとえば地獄とはあらゆる恐怖に苛まれた状態。餓鬼とはすさまじく強い執着感、

畜生とは本能、欲望のままむき出しの状態、修羅は争い、力を求め他を圧倒したい心、

人とは平常、しかし人間的な疑心暗鬼を指すとも。

天は喜び、声門は学ぶ喜び、縁覚は真理に触れる喜び、菩薩とは・・・・。

各境地は、いくらでも精密にもっと細かく説明できるだろう。

エゴがエゴを評価する、人間の世界のほとんどすべてではないだろうか。

おそらく、方便というものだろう。しかし人は何故かこういうものに強い関心を持つ。

そして、なるほどね、と「納得する」。さもエゴが分かったかのごとく。

ランクつけは、人が我と他との比較に使った物差しに他ならない。

わがエゴを知らず、人のエゴを評価する、だから

人の悪いところはようく分かる。

十界論にいまだどこか引き付けられる己にこそ気をつけなければならぬ。






言葉

エゴがどういう時に生成するのか、観察すると・・・・。

感情だけでは生まれない、続く思考が創りだしている。

「恐れ」からいかに逃れるか、避けるか、

このことを記述するには、身体のことだから身体由来の「もの」がいる。

ジッと見れば、言葉におきかえて頭の中のノートにせっせと書き込んでいるようだ。

思考は言葉で表すことが出来る。逆だ、言葉で表せるのは思考感情つまりエゴに関することだけ。

思考とは言葉であり、言葉はエゴを表すツールらしい。

だから、「見切る」という技法は、エゴを一時的に言葉で実現させ、その勢いを削ぐことだ。

「見切る技法」はエゴの本質を見抜いた巧みな技法である。

エゴをもってエゴを制す。

だから逆に自己暗示やいわゆるプラス思考がいかに誤ったものかがよくわかる。

人の意に反して、エゴがさらにたちの悪いエゴに置き換わる。

頭の中が言葉で一杯になっていたら、言葉が飛び通うようならば、それは

エゴに心が占領されていることになる。

「いま」は言葉での表現が出来ない。

だから、エゴではない。つまり「意識」

エゴ

自分と他を意識したとたん、空間や時間がワラワラと浮かび上がってくる。

「いま」が消えて過去や未来が蠢き始める。

思考の乱舞がはじまる。

怠惰なとりとめのない時間が消費されてゆく。

エゴに力を供給しているのだ。

エゴは時に必要ではあるが、求めて意識するものではない。

物語の内側にいることの自覚は、エゴを見つめ、その振る舞いを認めることだ。

しかし面白いことに、もう一つのエゴが嫌がるのね。

エゴには連帯感がない。

人の集団のようだ。

折り合いをつけるべく、第三のエゴに相談しようとしたら、第一、第二が、邪魔をする。

セオリツヒメの出番だ。

昔の田舎

2年ほど前に、Sさんが90歳でなくなった。彼は長老的な立場であった。

責任の分散で個人のリスクは小さくなるが、それだけではどうしようもないこともある。

土地争いや、公的な負担金の問題、祭りの準備に至るまで50年にわたり穏やかで平等な

調停を彼はまったくの無償でやってくれた。議員さんや行政の幹部までが挨拶にくることもあった。

彼は珍しいことに近所に血縁もなく地縁もほとんどなかった。明治初めのころ、

いつの間にかどこかららか来た方がお父さんらしい。

苦労もあったらしいが、地域に不可欠の人として存在感は大きかった。

集団には、必要なときにこういう方が「自然と現れる」ようだ。

そして皆が「認める。受け入れる。」

彼がなくなる20年も前ころから、長老文化は消え始めていた。

集落の人口は2倍になったが,昔からの家は半減し、新しい若い人の家が2倍になった。

新しい伝統が生まれ根付くのだろうか。

今はもう、キーパーソンが不要な時代かもしれない。



田舎くらし

田舎に住みたい。青い空、きれいな空気、緑の畑、こまやかな人情、とは憧れなのです。

実際住めば、それなりの独特のルールがあります。

まず、ほとんどの家は何らかの地縁血縁でつながっていること、を知っておかなければなりません。

ひとたび、このネットワークに歪が生じるようなことがあれば、そしてその当事者であれば、

以後かなり長い間、なんとなくマズイナーから始まり、300年にわたって隣の家とは口もきかない、

となるまであるのです。

ルールとは、責任をあいまいにすることです。たとえば、私がやります、などといってはいけません、

周りからなんとなく薦められ、そのような雰囲気になって、皆さんもそうおっしゃるならば、

と、しぶしぶ引き受ける形がいいのです。

責任の分担を明確にしないで、限り無く境界をあいまいにしておきます。

犠牲者を出してはなりません。

議論になるようなことは一番まずいのです。

議論にさえならなければ時間はいくらかかってもかまいません。

追い詰めない、追い詰められない、お互いにま、ま、ま、が望ましい。

しかし、この「善きルール」も、外部の人々が入り始めて、集会では記録がとられマニュアル化

が進み、ファジーさ、アバウトさが消えてゆくのも時代の流れなのでしょうか。

江戸時代以前から続くよき伝統が、消えてゆきます。

「責任の分散が安全装置」。効率が悪いです。

アナログからディジタルへ、世の全ての現象を輪切りにし順序を明確にし位置を決め・・・・・・。

すばらしい時代が始まっています。

ブルースター

ブルースターとは星型の磁石にコイルを巻き、まわりにブルーのLEDを配置したディバイスである。

先日、修理依頼があったものが今日届いた。

毎日長時間使うものだから、内部で銅線がねじれビニールの被膜の中で一部断線しているのだ。

購入されて4年目、修理依頼はこれで2回目である。

それだけ、使い込んで下さったのだから製作者としては嬉しい限りである。

修理代は5年間は無料、LEDに関しては電流制限ダイオードを使っているから10年以上でも

大丈夫と思う。

この方は、病気のデパートと言われて50年、入院回数は覚えていないらしい。

寝る時に枕元に置くのだそうである。痛いときやしびれたときには患部に当てる、

不安なときには胸に置くということだった。おかげでずっと小康状態で、最近は病気の兆候は

ないとのことであった。

LEDには開発当時から治癒効果があるといわれており、アメリカでは健康保険対象の製品も

あるらしい。このディバイスには師匠にエネルギー封入をしていただいている。

製作数はほんのわずかであった。熱心に使われているのはこの方だけだろうか。

師匠との直接の出会いはないがこの方も「意識の本質に触れた方」である。

修理して明日にも返送だ。



フィールド

先日、12年続く勉強会があった。メンバーは入れ替わるがともかく続いている。

色んなやり方を試行して来た。

最近は、ヒーリングもしない。定まった形がない。

各自椅子に座ってもらう。それだけである。

私は呼吸法、地芯、コンセント、全員と胸をつなぎ好きな画像を眺める。目を閉じて眺める。

響きを聞いたつもりになる。

ふと気づいたときに終わる。

聞けば、皆さんの心身が軽くなっている。私も軽い。

雑念は湧くし、光が見えるわけでもない、恍惚感に浸るわけでもない。

だが、心からありがたいと思う。



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プロフィール

ロックエヴァ

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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