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パソコン

パソコンの使い方についてはいっこうに上手になれない。

まもなく8年目である。いまだパソコン関係の本は、タイトルに

「大きな活字の・・・・・・」

「中高年のための・・・・・・・」

「やりなおしパソコン・・・・・・」

「困ったときの・・・・・・・・・」

「いまさら聞けない・・・・・・・・」

「できる・・・・・・」

「はじめての・・・・・・」

「基本が分かる・・・・・・」

などの冠がついている。お恥ずかしい。

そして開けば、全て目新しく見える。「ほぉーー、そうだったのか・・・・」

そして、トラブル発生、どこを探しても対策法はヒットしない。

先日は,意を決して3日間がんばった。メールやインターネットがきわめて不安定、

エラーばかりが出る。とうとう接続不能になった。仕事にならない。

結局、サポートセンターからプロを呼んだ。

無線ランの故障だった。滅多にないことだそうである。初めてだといっていた。

本10冊分以上の費用が発生した。

感心したのはプロの技。

時間内に原因を見つけ、ランをはずし、ダイレクト接続に再設定してくれた。

勉強になったか、というと、分からない。しかしプロは確実に仕事をしてくれる。

こちらが苦労した挙句結局解決できなかったからなおさらそう思う。

ただ、私は自分でハードディスクの交換、メモリーの増設、スイッチの修理などはやれる。

遅いけれど一応ブラインドタッチである。

次回は何が起きるか、8年目のXPをなだめながら、次回こそはといつも思っている。

体験

ずいぶん以前から脊柱、頚椎、骨盤、仙骨、股関節、などにかなりのゆがみ歪みがあることを

自覚していた。30台のころの我流のトレーニングや生活習慣からきたつけであると思っている。

基礎トレーニングで心を修正すれば必ずや骨格も自然に改善されると確信していた。

それは今でも変わりはしない・・・・・・・。

機会があったので、ベテランの整体師Tさんに仙腸関節と頚椎の調整をしてもらった。

時間的には10分ほどであったが、体ばかりでなく、左右の身体感覚さえもバランスがよくなった。

心も何となく軽くなった。呼吸がすっきりする。

そこで、呼吸法、地芯、コンセント、真我での呼吸をはじめいくつかのトレーニングを試みた。

今まで以上に深く、感覚はやわらかく繊細、響きさえも分かるような感じが続いた。

いままできちんとした整体を受けたことがなかったので、その効果に手技への見直しを迫られた。

私の拠って立つところは、心が健康ならば体も健康、体をはじめ自らの環境の不調和は

心のあり方がまずい、ということである。だから、手技などで体を調整してもらわなくても

何時かは自力で、自ら完全たりうる、との思いがあった。思い上がりである。

もちろん、心の健康が先、という原則にはいささかの迷いはないが、しかしこれも今の時点では

観念に過ぎないと、言うことになるだろうか。不完全だからこそ、不調和を抱えているからこそ

肉体を持たされこの世に生まれえたのである。

目の前によき機会があれば謙虚に迷わず取り入れてみよう。目の前にあるものは必要だから

こそ目の前にある、ということだ。大好きなサウナに行くことと違いはなさそうである。シンプルだ。

そして、それ以上に大切なことは画像やシール、各種技法である、もっと丁寧に徹底しよう。
























対話1

ある本をよんだ方からのメールでの質問です。生真面目な方です。

Q.宗教体系をとるとその創始者の魂が伝えられずにひからびた死骸だけが残されていく。
それにしがみつくのはそれを通してリアリティーをみないと,不安でおられないからというがん
じがらめの信者たち。
だとしたら,真言も,神さまごとも,イチョウも,すべて死骸の系列に加わるのでしょうか。
自立しているということは,あがめず,自分のなかに神をみいだす,ということは,
とてもわかりませんが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
A。唯一存在するのは「膨大な意識」だけです。
本来宗教とは、この存在について学び気づくシステムであったと思います。
しかしやがて教える側と学ぶ側が分離したときにシステムは崩壊しはじめました。
自他の区別を峻別するほどエゴは大きく拡大してゆきます。
分離感こそがエゴの最もむところであり、生成の原点でもあるからです。
エネルギーの流れが高から低に向かうという思いはエゴの思う壺です。
「流れ」を想定することで流す側と受ける側の差別が明確になります。これは思考そのものの種。
前頭葉の喜びそうなお遊びに発展してゆきますね。この世では判断、比較、などといいます。
エネルギーそのものにさえさほどの意味はありません。
そういう形骸化したシステムの行き着くところには死骸だけしか残らないというのは当然の帰結です。
信者の不安とは、いろいろあるでしょうが、
つきつめれば「本来全てを知っている」ことから来るシステムそのものへの危惧に他なりません。
顕在意識には上がってこないでしょう、ですから言葉では説明できません。しかし、分かってる。
これもまた、プリミティブですが安全装置と考えてよいかもしれません。
我々という存在に指し示される方向は「膨大な意識」へ向かっています。
真言、神事、シンボルなどは思考の枠組みにすぎません。
枠組みがあれば安心と思うならば意味付けしてもかまいませんが、
厳密には幻想と知っておくほうがよいでしょう。

自立とは、エゴの抑制から始まります。あがめる、とは力を他に求めることです。
力を求めるほど遠くなりますね。
重要なことはエゴの束縛から解放されることに他なりません。
と同時に内なる実在と親しくなることです。和解といいます。

観念的な問答に終始しましたね。
実際、私自身問いに答えるほどの深さも言葉もありません。
何も答えず、言わず、ある技法をしながら傍にいてもらったほうが良かったかもしれない。
しばし同じフィールドにいることだけは互いに分かったかもしれません。



右脳

ずいぶん前に、師匠から榎本其角の俳句を紹介してもらったことがある。

右脳の活性化にとてもよいということだった。時々楽しんでいる。

其角は松尾芭蕉の高弟、その句は実に味わい深い。

雨蛙芭蕉にのりてそよぎけり
(あまがえる ばしょうに のりて そよぎけり)

古池に飛び込んだカエルもいるが、これは師匠(芭蕉)に乗っかっている。

ユーモラスな師弟関係だ。川柳の前で踏みとどまっている。

夕すゞみよくぞ男に生れけり
(ゆうすずみ よくぞ おとこにうまれけり)

有名なこの一句。夏、今で言えば午後7時過ぎの江戸の路地。黄昏が迫っている。

腰を下ろしている浴衣姿の若い女性,白い素足に桐の下駄、ゆれる団扇、

傍にはほおずきの鉢植え、洗い髪の微かに甘い匂い。

静かに闇が迫り、穏やかな江戸の一日が終わろうとしている。

男は女を振り返りそっと立ち上がる。


其角はどうやら、真面目で善き人ではなかったらしい、・・・と思う。

なぜなら、人を楽しませるすべをよーーく知っている。そして、その前に男を楽しんでいる。





観察

目覚めが悪い、目が覚める前から心が重い。そういう日がある。

こういう日は、何があってもイライラしたり、猜疑心が湧き上がったり、妙に意地悪くなったり、

ちょっとしたことで攻撃的な言葉をぶつけてしまう。

市役所からの税金の通知が来た、説明文を何度読んでもよくわからない、収める事なのか、

引き落としなのか、意味不明、高齢者で目の不自由な方は途方にくれるだろうな。

見えない役所の担当者に怒りが沸きなかなかおさまらぬ。

携帯電話の使い方が分からない、分厚いマニュアルを読んでも肝心のことが分からない、

書いてない、怒りは沸点に達し、マニュアルは真っ二つに裂かれゴミ箱にたたきおとされた。

エゴと親しくするのも正しいことがある、と正当性を叫ぶ。

市役所のデリカシーのないやつめ、AUの無能社員めが、・・・・・・・、と怒りをかきたてる。



わずかの間隙から見えるのは、心がエゴの方を向いており、粘着シートに引っかかっている光景だ。

我々は、目の前のモノや現象が原因で心が重くイライラし攻撃的になったのではないことを

すでに知っている。わが心のあり方こそが問題なのだ。勇猛心をかきたて、呼吸法をして

地芯に降り、コンセントに昇る。つづいてチューニング。響きを聞く。目の前が明るくなる。

光景が変化する。職員や社員も大変だね、という気持ちさえ湧く。

心の選択スイッチが切り換えられた瞬間だ。

これほどの効果的なシステムを持つ基礎トレーニングは他にはない。






送る。

『エネルギーを送ってください、』という依頼がよくある。

特に、遠方の方からである。

『送る』という用語にいつも面映い感情が付きまとう。

違うんだってば、そうじゃないんだよ、実はね・・・・・・と訂正したくなる。

しかし、説明してもほとんどの方は理解できないようだ。

確かに話をすると、『解りました』とにっこり笑ってくれる。

だが、それだけ。また「エネルギーお願いします、」とくる。

だから、苦笑しながら時が来るのを待つ。

およそ400年前までは太陽や星はすべて地球の周りを回っている、と考えられていた。

そこに地動説が現れた。

しかし、ほとんどの人はどちらでも良かったのだ。

見る立場が違うだけだから生活には何の支障もない。現代人でさえどうでもいいと思っている。

地動説は教科書の中だけでいっこうにかまわない。必要な人が学べばよいだけだ。

『送る』に関しては私自身さえ何年か前まではよくわかってなかった。

だから、当面は依頼してきた方が、心身軽くなればよしとしよう。

だが、ここの理解がなければ、エゴの意味も解らない、ともいえる。

ゆっくりいこう。

治るということは

若いころから3,40年にわたり腰、背中、腹部、下腹部、腕などに痛み重みが続き

さまざまな療法を試みたが一時的に軽くなってもすぐに戻る、

もう一生この体で暮らすほかはないと覚悟を決めたところまで追い詰められた老婦人がいる。

うちに来るようになって3年。ほとんどの痛み重みは改善された。

残ってるのは左腕の軽い痛みのみとなっている。

それも10分くらいのトリートメントで症状は消える。

真っ白だった頭髪に黒い毛が混じりだしておよそ1年、現在白黒半々までになっている。

思いもかけない副作用である。

ご本人は、白髪だけのときが品があってよかった、などと冗談交じりの不平を嬉しそうに言う。

この方の心の歪が修正されて少しずつではあるが膨大な意識に向かい始めたその証だと思う。

手技さえも使わなかった。すべて師匠から習った療法のみ、それにシール、画像、よみがえり水。

時間はかかったがもうもとの状態に戻ることはないだろう。

最近思うことがある。

それは、この方の身体的心的不都合が改善されたことは、

この方だけの問題の改善だけではなく

量子場にある我々全ての存在に『響き』が及んでいるのではないか、ということである。

地方のささやかな治療院からも波が広がっている、これは嬉しい。

この方も私も師匠も周りの皆も世界も一つなのだ、と思い始めた。

感情

定期的に療法を受けている方でも、当たり前だが日によって反応が異なる。

今夜Kさんが来院した。この一週間におきた感情の動きをトレースした。

スムーズな穏やかな日々だったようだ。

要点箇所に手を置くと、スーッと反応が早く変化する。

手が抜けていくような感じである。

薄い氷がすーっと融けてゆくような快さだ。

何ヶ月か前はひどかった。

手を置くとはじき返されるような拒否感があった。

体の辛さよりも、療法を拒むような壁があった。

仕事の激務と人間関係で悩んでいたらしい日が続いていたらしい。

体は心の状態にに敏感である。

体も環境だ。

環境は心の状態を如実に映し出す。

原因を外に求めることは、誤りである。人のせいにしたがる癖はなかなか改善されない。

しかしこの方は、最近は知識ではあれ経験で分かりはじめている。

私の見る鏡に変化あり。そう、私も変化している。

ことば

膨大な意識を「確認」するために、巨大な象を一生懸命に撫で回している一群の人たちがいる。

一群とはいえ本当は一人群役だ。日替わりにね。象はもちろん膨大な意識。

確認とは気づくことよりも納得することを前提とした自我にぺったりの好奇心。

ぺたぺたと触ってる、まあ、毎日のように彼の頭を離れることはない。

さて、認識して満足する日が来るのだろうか。満足とはエゴの傘の中にあるカテゴリーだ。

彼はもう何年も『課題』として続けているが、未だに、全貌はおろか一部さえも認識してはいな

いらしい。

なぜなら常に言葉としての表現にこだわるから。納得した上での知識とでも言おうか。

言葉は肉体をツールとした表現法の一つだ。だから、肉体を離れた言葉なんてありえない、

ものすごく不自由なものなんだ。肉体を離れた存在をどうして語れというのかな。

肉体はエネルギーの凝縮したものであって、意識間に生まれた排気ガスのようなもの。

本質的にちがうのだ。

さて、言葉は役に立つのか。極論から言えば無用、だ。そうは言っても、意義はある。

青空に浮かぶ雲。「ほら、あのライオンに似た雲、そうそう、そののとなりのメロンパンみたいな雲」

と指差すくらいには役立つかもしれない。

特に師匠が言われたときにはね。師匠は無駄なたとえは決してされないが。

しかし、最近、気づいたのだが、まいど会では響くんだよね。

常に言葉以上のものがあるってこと。我々にも耳がある。

肉体をもった意義はある。エゴの殻の中ではあるけれど無垢の意識がある。

殻には少しは薄いところもあるはずだ。だから汽車に乗ってかけつける喜びはもう何年もつづく。

認識は不可能、気づきは可能、を知ってるもう一人の私がいるからね。



*読み返すと何か自分でも解りにくいけれど、そのまま掲載します。膨大な意識を象に例えるなんて初めから矛盾している。例えようのない実在だしね。でも、わが生活態度の表現をするには言葉を借りるほかはないというジレンマがあるのです。

知っている

本当は、我々は全てを知っている。知らされている。

分かりましたか?

分かりにくいかな。顕在意識に上らないだけなんだ。それでいいのだよ。

言葉で表すってことは、現実、不可能だ。膨大な量だし、無限に重層的な深さがある、

連関する広がりは無限と来ているし、

「ある」って言うだけでいいのかな。

量も広がりも実は思考のフレームだし、

エゴは少し満足するだろうが本当は意味はない。

いや、どうしても知りたいって?

誰が?

行動できない?、判断できない?

余計なことだよ。

無心になって行動すれば、すなわちエゴを抑制して行えば、

自然に、膨大な意識と調和した行為が出来るというものさ。

基礎トレーニングというものは、力を得る為にするんじゃないよね、

こういう日の為に積み上げてきた通りをよくする技法なんだね。





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プロフィール

ロックエヴァ

Author:ロックエヴァ
療術家  

大黒屋誠二郎師を師匠として、伝授された画像や技法などを使って日々、療法に取り組んでいる。
画像、シール,保健水などの活用を中心に、心、意識、身体などについて研究を深めていく事を目的とした「まいど会」の会員。

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